メッセージ(大谷孝志師)

キリストの時の始まり
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年12月6日
聖書 ルカ1:26-38「キリストの時の始まり」  大谷孝志牧師

 先週の聖日から、主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスを迎える準備のときが始まりました。新約聖書にはイエスの歩みを記した福音書が四つありますが、主イエスが生まれる前後の様子を記したのは、マタイとルカだけです。しかしその二つに共通するのは、母がマリアその夫がヨセフ、生まれた町がベツレヘムであるだけなのです。マタイにはヨセフへのマリアの受胎告知、東方から来た博士達のエルサレムでの言動、それを知ったヘロデ王の恐れ、星に導かれた博士達の家にマリアと共にいる幼子訪問と礼拝、エジプトへの避難、最後にヘロデの幼児虐殺と彼の死後ナザレへの転居が記されています。ルカにはマリアへの告知、エリサベツ訪問とマリアへの祝福、ナザレからベツレヘムへの移動、宿屋以外の場所での出産、誕生した救い主が飼葉桶に寝かされているとの羊飼い達への告知と彼らの嬰児訪問、律法に決められた通り嬰児の為に犠牲を献げ、預言者達から祝福を受けたこと、その後ナザレへの帰宅したことが記されています。全く異なった誕生物語に見えますが、どちらも事実と初代教会が認めたから聖書に残されています。そしてこのような形で伝えられたことによって、読む私達の心に主イエスがどんな方として誕生したかが、立体的に浮かび上がってくるのです。

 ヨセフと婚約したマリアは、一年間父の家で過ごし、その期間が過ぎると結婚式を挙げ、夫婦となります。しかし婚約中は結婚と同様の義務を求められるので、妊娠すれば、姦淫の罪を犯したとして処刑されることになります。

 マリアは純潔を保たなければならない期間なのに、妊娠すると御使いに言われたのです。ユダヤでは御使いが現れ、告げる相手はヨハネの場合、父ザカリアであったように男性に限られました。ですから、女性の自分に御使いが現れたのです。その驚きとショックは相当のものでした。しかし、彼女は驚きの中で、自分の人生が全く変えられるかも知れないと感じ取っています。

 御使いが自分に現れる事はないと思っている人が大部分だともいますが、今も神は、私達を変える為に聖霊に依り、事実を、御心を伝えているのです。神のその働き掛けに応え、心を神に向けることが大事です。今も私達に御言葉という種が蒔かれています。実を結ぶ良い地になりましょう。御使いはマリアに「恐れることはない。あなたは神から恵みを受けた」と言いました。彼女に起きた事は確かに特別な事かもしれません。しかし神は、彼女を用いたように、私達を用いて、御心を示し、御心を行わせ、世の人を救いに導こうとしています。彼女が御心が示された時のように、聖書を読み、祈る中で、御言葉が心に響き、人生の大転換を予感させられたとしたら。それは自分を祝福の源とする恵みの時なのです。新しい時が始まろうとしているのです。

 さて、処女マリアが妊娠して男の子を産むこと自体が人知を遙かに超えた驚くべき事です。しかし、その子が永遠にヤコブの家、つまりイスラエルを治めることは、それ以上に驚くべき知らせでした。何故なら、ユダヤはローマ帝国の属領であり、王はいてもシリア総督の統治下にあったからです。

 ユダヤは辺境の地で、強大なローマにある程度の自治は与えられていても、何事もローマの意のままでしかなかったからです。それなのに御使いは、イスラエルの神がユダヤのみならず全世界の全権を持つ主であり、マリアが産む子にダビデの王位を与える、その子が全世界の王となると言ったからです。

 聖霊がマリアの上に臨み、神の力が彼女を覆うので、妊娠し、出産すると御使いが告げました。マリアは私達と同じ人間の女性です、その彼女に聖霊が望み、神の力が直接彼女を覆い、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」のです。これは驚くべき事です。神が創造した世界、でも罪が支配しているこの世界に、神が直接介入する時が来たことを意味します。御子イエスの誕生により、新しい時が始まることを意味するからです。この世界が根底から大きく変えられ、神が神であること、イエスの言葉と働きにより、神は全知全能であり、神に出来ない事は何一つないことが明らかにされる新しい時が始まると御使いが告げたのです。更に、「代々にわたって」とあるように、主は永遠にこの世をヤコブの家、新しいイスラエルの国の王としてする支配に終わりがないのです。その事がマグニフィカートと呼ばれるマリア賛歌1:50-55で高らかに歌われています。マリアは御霊により知らされ、主の統治の根本は「あわれみ」であり、それは主を恐れる者に及ぶと歌います。主を恐れる者とはどんな人々でしょう。主を信じ、主と共に歩む人々です。主の憐れみを戴けるのは素晴らしいことです。この世に生きていると、様々な出来事を経験します。その中には意味や理由が分からず、途方に暮れる事も多くあり、動揺し、悩み苦しみ、悲嘆に暮れることもあり、時には絶望の淵に追いやられることもあります。しかし、どんなに嘆き悲しみ、苦しみ呻く日々が続いても、主を信じる者にはそれを御心と受け止められます。主が恵み深い方と知っているからです。ですから、どのような状況の置かれても「主はその御腕で力強い業を行」っていると信じられます。世の人々はそんな馬鹿なと言うかも知れません。神が憐れみ深いなら、何故放っておくのだと言うでしょう。しかし主イエスを信じるから、「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか(マタイ7:11b)」との御言葉を信じ、その御言葉に励まされるからです。

 そしてマリアの言葉が過去形なのに気付きましょう。聖書は、権力のある者が王位から引き下ろされ、低い者が高い位置に就いた事、世の飢えた人々が放置されず助けられた事、富んでいた人が追放された事もあると教えます。御霊はマリアを通して、私達に恵みを数えて見よと教えています。主は私達を愛し、恵みを与え、世に生かしています。ですから恵みを数えるなら、神が憐れみ深い方と気付けます。主イエスが生まれ、十字架に掛かって死に、復活して今も生きて働いているその時の中に、私達は生きているからです。

 自分の過去を顧み、主の恵みを数えましょう。主は今も憐れみ、私達をご自分のものとして愛し育み、助けていると信じましょう。神は全ての人を、新しいキリストの時の中に生きる者とする為に、不思議な形で御子を誕生させ、その事の確かさを私達に示したのです。神の豊かな愛に感謝しましょう。