メッセージ(大谷孝志師)
真の礼拝とは
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年12月6日
ヨハネ4:21-26「真の礼拝とは」 牧師 大谷 孝志

 今朝も礼拝が行われた。礼拝というと殆どの場合、日曜午前中に行われる主日(聖日)礼拝を指す。それは、週の初めの日に主イエスが復活したことを記念して行われるから。礼拝では讃美と祈り、説教と献金がある。これは教会生活の縮尺版であり、キリスト者の日常生活で本来のあるべき姿を示すもの。今日の個所で、主イエスがサマリアの女性に教えている真の礼拝について、私達も共に学びたい。

 主イエスはユダヤ人、エルサレム神殿で礼拝し、旧約聖書を正典として大切にしていた。サマリア人はゲリジム山に礼拝所を置き、旧約聖書の中のモーセ五書だけを正典としていたので、良い関係では無かった。主は彼らも神の民として大切にしていた。彼らも真の礼拝をする者になって欲しいから、彼女に教えた。

 真の礼拝は「いのちの水を戴く時」。彼女は水を汲みに来た。生きる為に必要だから。人は生きる為に様々な物を必要とする。中でも水は不可欠。 この時は正午。暑い盛り。当然彼女は喉が渇いていた。実はそれ以上に彼女の心は渇いていた。私達は日曜に教会に来て礼拝する。義務だからでも、習慣だからでも無い。私達も心の渇きを感じて教会に来て主を礼拝することが大事。すると真の礼拝をする者になれる。教会はこの世のオアシスのようなもの。その思いで主を礼拝すると、砂漠のようなこの世の生活の中で疲れ、渇いた心に潤いが与えられ、新しい力が自分の内に湧いてくるのを感じる。その時、真の礼拝をしている者となっている。

 私達がこの真の礼拝をしていると、御言葉が心に響き、御心を感じることがある。主が私達を深く愛し、働き掛けているから。すると、自分はこの世で一人では無い、主が生きて私と共にいると判り、心が落ち着く。この事実と確信が、日々の生活の中に力を与える「いのちの水」になる。そして私達の心を潤してくれる。

 私達は主を礼拝する時、自分の罪を知る方の前に立つと意識しよう。主は、彼女と話している中で「わたしが与える水を飲む者は。いつまでも渇くことがありません」と言った。すると彼女は「私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくても良いように、その水を下さい」と願う。主は彼女に「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言った。彼女は隠したい事情があったから、昼、暑い盛りに水を汲みに来るという大きな犠牲を払った。しかし彼女の前に立つ主は、その事実を知っていた。私達も同じように、人に知られないようにと、必死で隠そうとすることがある。辛く苦しい。しかし主はそれを既に知っている。見抜いている。その主の前に立つことは恐ろしいことではない。主はその事実を知っていて、その罪から私達を解放する為に十字架に掛かって死んだ。その主を心から見上げよう。その主の前に立っていると知るなら、私は真の礼拝をする者となっている。

 御霊と真理によって礼拝しよう。心の内を見抜かれた彼女は、主に礼拝の場所について尋ねた。すると主は、礼拝で大切なのは、場所や形式ではなく、礼拝する心と姿勢と教えた。御霊によって礼拝するを言い換えると、求める心で礼拝すること。「主よ、あなたは求めるものを与える方です。私が生き生きと生きられるように真理、力、喜びを与えて」と真剣に、確信をもって求める心で礼拝すること。真理によっては、主は真実な方と信じて、自分も誠実に、確信をもって、しかも委ねる姿勢で礼拝すること。神はこのように礼拝する者を求めていると主は教えた。最後に主は彼女に私がキリストと言う。彼女は主に出会い、変えられた。私達も真の礼拝をする者となろう、霊的に主で会え、私達の人生も大きく変えられる。