メッセージ(大谷孝志師)
信仰の段階的成長
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年12月13日
ヨハネ4:46-54「信仰の段階的成長」 牧師 大谷 孝志

 息子が死にかかり、絶望の淵に立たされたカペナウムに住むガリラヤ人である王室の役人。彼は一筋の希望を見出す。偉大な力を発揮するイエスという方がガリラヤに来ていると聞いたから。主はサマリアの女性を通して多くのサマリア人を正しい信仰へと導いた後、水を葡萄酒に変える奇蹟を行ったカナに来ていた。

 ガリラヤ湖畔の町カペナウムから約40`の道のりをものともせずに、彼は駆けつけた。そして、カペナウムに来て息子を癒してくれるよう主に懇願した。彼は<溺れる者は藁をも掴む>ような気持ちで、カペナウムからカナまで来たのではない。主が奇跡を行うという噂を信じ、イエスなら自分の息子を癒してくれると確信し、主イエスに縋り付くような思いで来た。懇願した彼は、マルコ7章でシリア・フェニキアの女性に言った突き放すような主の言葉「あなたがたは、しるしを見ない限り、決して信じません」を聞いた。私達も思い掛けない御言葉に出会い、ここまで自分はしなければならないのかと落ち込んだり、神に背を向けたくなることがある。神は私達を突き放そうとしていない。ヘブル12章にあるように、神の子として愛し、訓練している。主は、彼の信仰を試し、高める為にした。彼はその試練を克服した。彼は見ないでも信じられる信仰者へと成長した。「死なないうちに来て下さい」と言っていた彼は、主に「行きなさい。あなたの息子は治ります」との言葉を信じて帰ったから。彼は最初は、主は自分の願いを叶える方と信じていた。彼のその信仰は、主との対話の中で、見ないで信じる信仰へと一段階成長した。しかし、彼の見ないで信じる信仰は、まだ賭けのようなもの。

 私自身もそのような信仰段階を経験した時がある。今や将来の願う事がある時、そうなると信じるしかないと思ったり、今は信じるしかないと思う信仰。正直に言えば、主を信じていても確信が持てない信仰。しかしそのような信仰も間違ってはいない、と今日の聖書は教えている。何故か。人は人である限り、確信を持てないのが事実。この役人も主の言葉を聞いても確信は持てなかったと思う。しかし信じるしかなかった。そして主の言葉に期待を掛けた。とにかく全てを主に委ね、信じた。そして息子の所に帰る決断をし、実行した。 驚くべきことには、主がそう言ったのと同じ時刻に、彼の息子の熱が下がった。彼は、帰ることにより、遠く離れた死にかけている者をも癒し、生かす力があると知ったのである。

 人は弱い、だから、確信が持てなくても良い。でも人は、主の言葉に自分を託し、期待する事は出来る。聖書はその信仰で良いと言う。それが主の言葉だから。主がそれを善しとし、叶え、主の偉大な力を味わえると教える。彼は、主の言葉を信じて帰った。彼が主の愛に触れ、主に期待し、希望を持てたから。そして彼が、主の言葉を信じて帰ったから、彼も息子を含む家族一同も主を信じられた。

 私達は主イエスをどんな方と信じているか。圧倒的力と愛を経験し、主よ、信じますと告白しているだろうか。彼は絶望的状況の中で、主イエスのことを知り、この方に願うしかないと思い、主の許に来た。48節は「あなたは、私が奇跡を行う力があると聞いたから来たのか」と彼に鋭く問い掛けた主の言葉。彼はその言葉を聞いても引き下がらず、諦めなかった。私達も時に主に突き放されたような経験をする時が。それは主が私達の信仰を試し、信仰を深め、高める為に与えた試練と気付こう。主は私達を愛し、信仰を段階的に成長させようとしている。より良き主の僕とする為に。主の訓練を感謝し、主に導かれて信仰の階段を上ろう。