メッセージ(大谷孝志師)

自分に出来る事を
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年12月20日
聖書 ルカ2:1-7「自分に出来る事を」  大谷孝志牧師

 主イエスは今から約二千年前に今のパレスチナ自治区にあるベツレヘムで生まれました。それは、ローマ皇帝アウグストゥスが住民登録を命じる勅令を出した時でした。この住民登録は、ローマ皇帝が女性や奴隷も含む全住民の数を調べて、各地の状況を正確に把握し、統治を円滑に行おうとしたものだったので、勅令はユダヤ社会に非常な不安を呼び、後の反ローマ運動を起こす引き金にもなりました。しかし勅令ですから人々は従い、ヨセフも郷土権を持つユダヤのベツレヘムというダビデの町に帰り、そこで登録しなければなりませんでした。しかし、妻マリアは身重でしたから、ヨセフにとってこの旅は容易いものではなかった筈です。5節の「身重になっていた、いいなづけの妻マリア」は、遠回しにヨセフがその子の父ではないとの表現です。先週学んだように、彼は主の使いに「ダビデの子ヨセフよ」と呼び掛けられ、救い主の母の夫となり、その子の父となれと命じられました。そして、彼は御心に従い、生まれてくる子を自分の子として受け取り、承認する決心をしました。ですから、彼は「マリアとともに登録する」という厳しい旅を承知で、ベツレヘム向かったのです。彼は、ローマ皇帝の命に従っていますが、それ以上に神の意志に完全に服しているからです。パウロも「上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているから(ローマ13:1)」と言います。世の権威に従うことが神に背を向けることになる時は、断固拒否すべきです。しかし、自分の都合、好き嫌いで判断すべきではありません。全ては神の御心によると信じ、行うことが大切です。そして神に委ねつつ行うなら、神は喜び、全てを支え、私達を平安の内に導きます。

 彼らがベツレヘムについて直ぐではなく、そこに滞在する内にマリアは月が満ちて、男子の初子を産みました。そして、その子を布に来るんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。宿屋と訳された言葉は、普通の家の客を泊めてもてなす場所を指します。この時代の庶民の家は普通は一間だけで、そこで全ての生活が営まれました。そこで家畜も飼うこともあり、産後の母と嬰児をそこに寝かせるのには不安と危険がありました。ですからヨセフは、出産をそれ以外の場所、馬小屋に用いていた近くの洞窟で行えるようにした上で、壁に吊り下げた飼い葉桶に嬰児を寝かせたと考えられます。王として生まれた子に相応しい所とは言えません。しかし神が敢えて貧しさの中で出産させたと言うより、神は彼に、出産する妻と嬰児の安全と健康を考えて、妥当と思う行為を、置かれた状況の中で、自分に出来る精一杯にさせたことに注目しましょう。

 主イエスは、布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされました。御使いはマリアに、いと高き方の子、とこしえにヤコブの家、神の民の群れ、教会を治める方、聖なる者、神の子と呼ばれると告げ、ヨセフには、自分の民をその罪から救う方と告げました。しかし嬰児は、他の新生児と同じように、産着にくるまれた普通の赤ん坊です。家畜用の場所にあった飼葉桶に寝かされました。マタイでは、主は幼子で父母と共に家にいます。星に導かれて東方から来た博士達が礼拝に訪れ、宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を献げました。明るく華やかな光景がそこにあります。それに対し、ルカでは暗い家畜がいると思われる所で、飼い葉桶に寝かされていて、見に来たのは野宿しながら羊の群れの夜番をしていた羊飼い達だけです。確かに、簡素で飾り気はありません。しかし、この嬰児こそ救い主、主キリストなのです。この情景こそが私達の為なのですと聖書は私達に教えています。

 ヨセフは、この嬰児が適切に成長するようにと、他の嬰児と同じように細長い布でくるみ、体がまっすぐに保てるようにしました。主はそのような配慮を必要とする赤ん坊だったのです。彼は母子の為に乳児室は確保できなくても、安全が保てるよう、人混みを避けた厩で、家畜の危険から守る為に吊した飼い葉桶に嬰児を寝かせました。彼は、自分に考えられ、しかも自分に出来る精一杯のことをしたのです。私達も主の為に豪華な部屋や寝台を用意する必要はありません。自分達が信じ、仕える主がより良く見えるようにと、立派な衣装で着飾る必要もありません。この会堂があれば十分なのです。目を引くような装飾も要らないのです。一人一人が自分に出来る精一杯のことをしていれば良いのです。自分に出来る事、御霊と真理によって父なる神を、主イエス・キリストを礼拝する、それをすれば良いのです。主が寝かされた洞穴は、光が入らず暗かったかも知れません。しかし、そこに光は無くても、御使いが羊飼いのところに来て、主の栄光で彼らを照らしました。主が厩にいるから、彼らは光に包まれたのです。

 私達は今ここで礼拝しています。主がここにいます。主がここにいるから、主の光がこの地にいる人々を照らし、この地に住む人々を霊の光で包んでいると知りましょう。そして、私達を通して自分達の為の救い主がいると知り、いつかこの教会に来て救われます。主がそうされます。私達はその事を信じ、ヨセフのように自分に出来る事を精一杯して世に生きていましょう。人に誇れることをしようと無理する必要はありません。旧約のエレミヤ9:24に「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主」とあります。御子を世に与え、御子の十字架の死によって全ての人を救う主」を信じている自分を誇りましょう。誇りをもって主を信じ、礼拝しましょう。それが自分に出来る事だからです。