メッセージ(大谷孝志師)
救われた者への賜物
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年12月20日
ローマ8:12-17「救われた者への賜物」 牧師 大谷 孝志

 私達は主イエス・キリストを信じて、救われている。救われているとはどういう事か。安心して誰とでも共にいられる事、どんな出来事に直面しても、落ち着いて対処できる事、不安や恐れを感じても、希望を持ち、主に期待して生きられる事か。そう。そのような生き方が出来ることが、主イエスを信じる者に与えられる賜物と言える。何故そんな事が出来るのかと言えば、キリストが私達の内にいるからとパウロは言う。信仰を持つ以前の自分を考えてみると、死が怖い、人の気持ちの変化に惑わされ、落ち込み、失望したりした。バプテスマを受けた後、或る人に変わった?と聞かれたが、良く分からないと答えた記憶がある。確かに、前に比べれば、落ち着いた人間関係が持てるようになった。相手の気持ちを勝手に解釈して、要らぬ苦労をしなくはなった。でも、やはり、考え方は自分中心、自分の為になるかならないかで、対処法を決めていた。パウロはそれを「からだは罪のゆえに死んでいる」と言う。救われても弱い自分のままだった。彼は7章で「私は、したいと願う善は行わないで、したくない悪を行っている」と言う。私の場合は、何が善か悪かも考えずに行動していたように思う。それでも相手の為になる事をしたいと思う気持ちが強くなり、神に喜ばれる人になりたい、そういう生き方をしたいと思うようになった。11節にあるように、私の内に住む御霊によって、私の死ぬべき体が生かされているから。

 私達は人としてこの世で生き生きと生きられる。それが救いであり、そう生きられるのは、神が力と知恵を与えているから。神が、救いという賜物を主イエスを信じる私達に与えたから。言い換えるなら、救われた者として生きる権利を与えられたから。この世でもそうだが、権利を持つ者には義務が生じる。同じように、救われた者にも義務が生じると彼は言う。その義務とは、御霊によってからだの行いを殺すこと。からだは罪の故に死んでいるのだが、主イエスが十字架に掛かって死に、主を信じるなら、御霊が内に住み、罪と死の束縛から私達を解放する。しかし世の終わりが来る迄、悪は人々を、特にキリスト者を誘惑し、自分の領域に、支配下に引きずり込もうとしている。そして、私達のからだを支配し、神が喜ばない事をさせようとしている。パウロはその誘惑に負けるなと教える。悪の力は確かに強いかも知れない。しかし方法はある。人の力ではその誘惑に勝てないのを知る神が、私達主を信じて救われた者に神の子となる資格を賜物として与えているから。

 私達は、悪の支配下に引きずり込もうとする奴隷の霊を受けたのではなく、子どもとなる御霊を受けている。御霊は私達の内に住んでいる。その御霊の導きに自分を任せればよい。しかし御霊に任せるとは、自分を明け渡すこと、自分を捨てることになる。神は私達が肉に従って生きて死ぬことを望んでいない。神と共に永遠に生きる者となることを望んでいる。悪の誘惑を断ち切ろう。私達は肉の内、悪の支配下にいるのではなく、御霊の内にいる。そう信じよう。御霊によってからだの行いを殺すなら、死んでいたのに生きる者、永遠のいのちを得ている者となれるとパウロは言う。私達は神が与えた新しい世界に生きている。神の子どもとされている。自分は幼い子どもに過ぎないと謙虚に認めよう。思う事が出来なくても良い。神は何が出来るかでなく、自分を神の子どもと思っているかどうかを見ている。神の子どもとする賜物をしっかり受け取っているかを見るだけ。神の恵みに心から感謝して、私達も幼い子が父親を呼ぶように「お父さん」と神に呼び掛けよう。