メッセージ(大谷孝志師)

一年を振り返る
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年12月27日
聖書 マタイ25:31-46「一年を振り返る」  大谷孝志牧師

 2020年も後数日で終わります。今年一年はどんな年だったでしょうか。生まれて初めての経験という人が殆どの新型コロナの恐怖に動転してしまい、長いと思う人もいればもあっという間だったと思う人もいるでしょう。しかし世に生きている者として、仕事や勉強、家事や人間関係の中で、人としてしなければならない事はたくさんあった筈です。そして振り返り、あれもこれも出来なかったと反省ばかりが目立つのが私達凡人ではないでしょうか。しかし出来なかったとしても、主はその人を怒ってはいません。

 聖書を読むと、確かに主は結果も求めます。しかし、それ以上に経過を大切にする方、何をしたかでなく、どんな心、思いでしていたかを大切にする方なのです。ですから、主を信じているなら、安心して前に進めます。

 今日の個所を読むと、主はいつでもどのような人に対しても、私にするように行動せよと教えています。しかし私自身考えてみると、出来なかったとしか言えません。主はそのような人のことを起こらないと言いました。自分の信仰を吟味するのは大切なのですが、自分は御言葉をどれだけ真剣に受け止めてきたかとか、どんな人でも、区別せずに接してきたかと自分を責め、落ち込んでしまったら前向きに進めません。そこに信仰の喜びが生まれてきません。主の言葉を誤解しているからそうなっただけなのです。

 ここに出てくる「御国を受け継げ」と言われた人も「永遠の火の中に入れ」と言われた人も、主の為にしようとした、しなかったのではないことに気付いて下さい。主にしたしないではないのです。私達が接した相手もどこから見ても人です。この人が主イエスだと思おうとしてもとても無理としか言えない人が殆どです。更に言えば、どんな人でも主イェスと思って愛せよと言われても、無理だと思うのが私達の現実ではないでしょうか。

 それに主がしたしないという行為、空腹の人に食べ物を与え、渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に服を着せ、病人を見舞い、獄中の囚人を訪ねたのは、全て見返りが期待できないし、犠牲を伴う行為です。相手が主イエスと分かれば出来るかも知れません。でも普通の人間としか思えない人にするのは難しいです。物やお金を貰いに来る人を、困っているなら助けなければとは思っても、この人は怠けて金を無心に来たのではないという思いを拭えなければできません。主を愛することは人を愛することだと頭では分かっていても、自分の生活を考え、家族を犠牲にすることになると考えると出来ないと考えてしまうのが人間ではないでしょうか。
 しかし、主はその与える行為をせよと私達の為に求めるているのです。それが救いか滅びかの分岐点になると教えています。それは何故でしょう。
 そこに私達が来年、主を信じて生きる者となる為の道標があるからです。

 昔、良寛和尚という人が「災難に遭う時は遭うがよろし。病む時は、病むがよろし、死ぬ時は、死ぬがよろし」と言ったそうです。その話を聞き、私は、伝道者の書の「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」を淡々と言い表した言葉だなと思いまた。主の言葉を聞き、どんな人でも愛さなければいけないのかと思うと、下を向きたくなります。でも愛することが主を信じ従うことだと悟れたらどうでしょうか。世の常識の世界ではなく、信仰が常識の世界に生きよと聖書は教えているのです。発想の転換、価値基準の転換が求められているのです。主は私達がそれ迄の考え方、生き方から一歩踏み出すことを求めているからです。主を愛する、人を愛するのは、しなければと思っても出来ることではありません。これはするのが当然だと思わなければ出来ない事なのです。実は私達も日常生活の中で、これはして当たり前だと思う事はしている筈です。困っている人を見て、助けるのが当たり前だと思えば助けようと思い、実行できます。義務だと思うと、余計なものが見えてきて、無理だ、出来ない、する必要は無いと思ってしまいます。そして、他の人は自分の行為をどう評価するだろうかと気になったり、自分がしているのに他人がしないのを見て、その人を裁いてしまいます。そうなると主は喜びません。この問題を解決する方法は、主がその人を私の為に与えたと信じることです。それが信仰の世界です。そうすると、助けを必要とする相手だけを見ていられます。世界史にはそのように生きた多くの素晴らしいキリスト者がいます。自分に、そして人にとってどうかでなく、主に必要な事だと知ったから、その人達は自分がとか自分の為かとの思いが消え、当然の事を当然のように出来たのです。

 とは言え、自分の生活は大事です。家族、社会の中で生きていますから仕方ありません。相手がどんなに必要を訴えても与えられないと思う時もあります。前にも言いましたが、主はここで、与えなかった人を厳しく非難し、裁いているのではありません。実は、主は信じない者でなく、信じる者になることを求めています。その事に気付きましょう。私達が、主を信じ切って、与えても自分は大丈夫と信じる者になることを、主は願うからです。単に人の為に自分を犠牲にして尽くせと命じるのではありません。信じ切れと命じるのです。<災難に遭う時は遭うがよろし>のように<困っている人がいたら、与えるがよろし>と命じるのです。それが主を信じることなのです。その人を主は喜びます。この一年が主に喜ばれる一年だったか、私達には分かりません。駄目だったと萎縮する必要はありません。成長し、変われば良いのです。主はこの譬えで、自分の信仰の歩みを素直に見詰め、来年は主を信じ切れる者になって生きて欲しいと願っています。