メッセージ(大谷孝志師)
心の目が開かれる時
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年12月27日
ヨハネ9:1-8、35-41「心の目が開かれる時」 牧師 大谷 孝志

 私達の教会の中にも病気に苦しむ人、体に不自由さを感じている人がいる。人は何故そのような苦しみの遭うのか、これは昔から、時代と国を超えて存在する問題。その答えを示そうとする考えが<因果応報>。これは仏教に限らず、様々な宗教に形を変えて存在する。昔、或いは前世に悪い事をしたから、今、この世で悪い結果を得ているとの考え。<罰が当たる>も因果応報の考えから出たもの。

 弟子達は道端に居た生まれつき目の見えない人を見て、主に「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と尋ねた。人は悪い状況に直面すると、これは誰の責任なのかと考える。問題解決の一助にはなるが、病気や障碍の場合、それは不毛の問いにしかならない。自分のせい、或いは両親のせいにしたら、そこには悲しみや憎しみしか生じないから。

 うっかりすると,弟子達のように私達も考えてしまう時がある。私達にとって、<一寸先は闇>だから。人は、今は過去の結果、将来の為に自分が今を何とかしなければとしか考えられないから。これに対し、主イエスは3節で<今の為に過去があった>のであり、<将来の為に今があるのだ>と教える。主は弟子達に「彼が自分は幸いだと今知ることになる」と言った。主は、先ず彼を見えるようにした。その後、癒された彼が町を追い出された時、主は彼を見つけ出して会った。しかし彼はこの方が主だと分からなかった。主の言葉通りシロアムの池に行って、目を洗い見えるようになった彼は、その目でイエスを見ていないから当然の事。

 この出来事は私達に大切な事を教える。それは主イエスはいつも私達の目の前にいるが、心の目が開かれていなければ、自分は主を信じているつもりでも、主イエスがいると分からない。しかし、聖書を読み、祈り、礼拝していると、心にあなたは主イエスが目の前にいると信じるかと呼び掛けられていると感じる時がある。御霊がいつも教会の交わりの中でそう語り掛けているが、なかなか気付けない。もし気付いたら、自分には主イエスが自分と共にいるのが分からない、と素直に、謙虚に認め、会いたいと求めよう。そうすれば心の目が開かれ、主イエスが目の前にいると知ることが出来ると聖書は教える。聖書は私達に希望があると教える。将来の為に今があるから、苦しんでいる人に「その原因が取り除かれることにより、主がこの苦しみから自分を救い出したと感謝できる」と言える。これが信仰の世界。聖書が教え、私達が体験し、世の人に伝える目に見えないが確実にある世界。聖書はこれを信じるかと、主を信じて救われた私達に問い掛る。

 私達は主イエスが救い主、癒し主、助け主と信じ、祈り求め続けている。しかし、目の前に主イエスがいると分かっているか、それが分かっている者として生きているか。主はこの一年を終えるこの時、新しい年に生きる私達に、心の目が開かれ、イエスが目の前にいると知り、それを知る者として生きよと語り掛ける。

 自分の信仰を誤魔化していたら、自分の家族、友人、教会の現状を変えて戴けない。祈りが中途半端に終わっているから。主イエスは確かに私達一人一人の前にいる。分からなければ分からないままで良い。マルコ9章の父親のように「信じます。不信仰な私をお助けください」と主に叫ぼう。主は自分の不信仰を告白して求める者に応え、必ず助け、信じる喜びを与える。その時、私達もこの盲人だった人のように「主よ、信じます」と言い、心から主を礼拝できる。数日後に始まる2021年、「新たな思いで歩み出す者になれ」と主は見守り、語り掛けている。