メッセージ(大谷孝志師)
賜物を生かす一年に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年1月3日
マタイ25:14-30「賜物を生かす一年に」 牧師 大谷 孝志

 <能ある鷹は爪を隠す>という言葉がある。<宝の持ち腐れ>とは違うが、爪を隠したままでは宝の持ち腐れ、何の役にも立たない。能力は使わなければ無いのと同じ。このような格言、例えには正反対の事を表すものが少なくない。<虎穴に入らずんば虎児を得ず>と相反する<君子危うきに近寄らず>がその例に。

 さて、この譬え話の五タラント、二タラントを主人に預けられた人達は商売をし、他に預かったのと同じ額を儲けた。商売は水物、リスクを伴う。彼らはリスクを承知の上で<虎穴に入らずんば虎児を得ず>の心境で働いたのだと思う。しかし一タラントを預かった人は<君子危うきに近寄らず>の思いになり、宝の持ち腐れをしてしまった。一タラントは一年三百日働いた賃金に相当。普通の人には一生掛かっても蓄えられない額。結局彼はその宝を取り上げられてしまった。

 この譬え話は天の御国の話。しかし天の御国はどんなに素晴らしい所かを教えた話ではない。主は、ご自分と一緒ににいる者は、今天の御国にいると教えている。ペテロは、高い山の上で主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤと語り合っているのを見て「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです」と言た。私達は主イエスを礼拝している。主が共にいる。ここにいることは素晴らしい事。確かに主が共にいることは、恵みと平安を豊かに与えられている事。だから素晴らしいのではない。主に賜物を与えられ、御業を行えるから素晴らしい。主は何故私達と共にいるのか。私達の働きが必要だから。私達の周りに、滅びに向かっているのにその事を知らない人々がいるから。主はその人々が救われることを望むから。この譬え話の主人が僕達に自分の財産を預けたように、私の周りの人の救いの為に主は知恵と力を預けている。主人がそれぞれの能力に応じてその額を決めたように、主は私達の能力を知り、それに応じたものを預けている。だから周りの主にある兄弟姉妹と自分を比べる必要は無い。自分に出来る事をすれば自分にとって素晴らしい豊かな実を結べる。<みんなちがってみんないい>。

 各自が持つ能力、使える時間は人によって異なり、実りを得るまでの時間も異なる。しかし主は個人の違いを問題にしない。五タラント儲けた人もニタラント儲けた人も同じ言葉で褒める。大切な事は自分が主と共に生きている事、自分は主が支配する世界に生きていると信じ、その主に忠実に生きている事。だから、一タラントを預けられた人のように、臆病になり、失敗を恐れ、叱責を恐れ、賜物を使わずに、しまったままではいけない。最も少ない僕にも一タラントという巨額なものを預けたように、主は私達に期待し、素晴らしい賜物を、しかもその能力に応じて預けている。確かに現代においてその賜物を生かし、主の証人として、主が喜ぶ実りを得るのは難しい。しかしこの譬え話が世の終わりの教えの中にあることに意味が。主イエスは何の為に十字架に掛かって死に、復活して私達と共にいるのか。だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを主が望む(Uペテロ3:9b)から。私達はその主を信じ、その主と共にいる。主が望むから、主の望みを実現する為の働き人が必要だから、私達は今教会に連なり、主の恵みと平安を豊かに頂き、主の知恵と力という賜物を預けられ、世に遣わされている。私達がどこにいてもそこは主が支配する世界。主は共にいる。その世界の中で、主に預けられたタラント、賜物を隠し、持ち腐れさせずに生かして用い、豊かな実りを体験する一年にしよう。私達はその為にここに招かれているから。