メッセージ(大谷孝志師)

私にとって主は
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年1月10日
聖書 マルコ12:41-44「私にとって主は」  大谷孝志牧師

 私達にとって主イエス・キリストはどんな存在なのでしょうか。3週間前、私達を罪から解放する為に十字架に掛かって死んだ主イェスの誕生を祝いました。今朝も残されているクリスマスの飾りがその事を示しています。今日は聖書の中でも有名なものの一つ「レプタ銅貨二枚を神殿の献金箱に投げ入れた貧しいやもめの話」を通して、主は私にとってどんな方かを学びます。
 これは献金の話ですが、献金はユダヤ人にとって私達が考える以上に非常に大きな意味を持っていました。私達は週に1度礼拝に出席して献金します。献金とは意味が違いますが、私は子供の頃、神社に行き、意味も分からず、親に言われた通り、鐘を鳴らして手を合わせ、お金を賽銭箱に入れました。この女性のように、イスラエルの人々も神殿で礼拝する時、献金しました。彼らにとって、献金は自分の信仰を神に現す大切な機会でもあったのです。私も「献金は自分を献げる思いで献げよ」と教えられたことを思い出します。

 さてイエスは、美しの門から神殿に入りました。回廊で囲まれた神殿の中には幾つもの内庭があって、門を入ってすぐの所に婦人の庭がありました。その壁にラッパの形をした十三の受け口がある献金箱が置いてあったのです。主がその向かい側に座り、人々がお金を献金箱に投げ入れるのを見ていた時、ここに記された出来事が起きたのです。主は力ある方です。主は離れていても、この女性が投げ入れたのがレプタ銅貨二枚だったこと、そして、それが生活費全てだったことも、ヨハネ1章のナタナエルの時のように見抜いたのです。主はそのような方として今も私達がいる所に共にいて、私達の言動も心の内も見ています。私達はその主を信じ、礼拝し、生活しているのです。

 さて、彼女が献げたレプタは当時の最小通貨です。しかもその二枚が持っていた全てで、生きる手立ての全てでした。聖書には「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」とあります。ユダヤ人は多く献金した人は神が豊かに祝福した人であり、神に喜ばれた人と考えられていました。しかし神は、この箇所を通して、その人が献げた額が、一タラントでも1ミナでも1デナリでも1アサリオンでも、この女性のようにレプタ二枚でも、皆同じだと教えています。神は献金という形でっころを神にしっかり向く人を区別なく喜ばれる方です。ここで教えられているのはそれだけではありません。主はこの貧しいやもめの行為を見て、わざわざ弟子達を呼んで教えます。「まことにあなたがたに言う」と言ったのは、主がこれから言う事は、彼らにとって非常に大切な事だからです。そして私達にとっても大切な事です。弟子達も献金をしました。私達も聖日礼拝で礼拝献金や月定献金、様々な感謝献金を献げています。主はやもめと他の人々との対比によって、献金はどのような思いで献げたら良いのかを教えようと弟子達を呼び寄せました。主は彼らに教えることを通して、人が献金する時は、この献金が自分と神の関係を表していることを知りなさいと教えているのです。つまり献金は、自分にとって神はどんな方かを表明していることを自覚して献げるべきと教えているのです。

主は、レプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れた女性を褒めました。彼女が誰よりも多くを入れたからです。彼女の献金額が誰よりも多かったからなのではないことは言うまでもありません。彼女の心の内を見て知ったから褒めたのです。彼女は、この額では何の助けにもならないから、献金箱に投げ入れたのでしょうか。そうではありません。彼女は何故神殿に来たのでしょう。神が自分の神と信じ、自分にとって、神は生きる手立ての全てを献げるに相応しい方と信じるから来て献げたのです。彼女は献げても大丈夫との確信があったからではありません。ただそう信じたのです。レプタ二枚でも彼女にとっては貴重なお金です。他人には彼女が何故そんな事をしたのか分からなかったでしょう。彼女も具体的に説明出来なかったかもしれません。でも、主は彼女の信仰を褒めました。でも、聖書は献金を問題にしているのではありません。神をどう信じ、どう生きるかを、私達に考えさせているのです。

 私達は礼拝や集会に出る為に教会に来ます。他に用事があった場合どうしますか。その用事と教会に来ることを比べ、教会の方が大事だから来るのではないでしょうか。彼女は僅かかもしれないが、生きる手立ての物をそのお金で買うことができた筈です。しかしそれを買うことではなく、その金を神に献げることを選びました。比較検討の結果でなく、二者択一の決断の結果、献金を選択したのです。彼女は神に全てを委ね、任せることを選んだのです。ですから、主は彼女の行為を褒め、その行為の理由を弟子達に教えました。

 信仰生活についても同じ事が言えます。礼拝出席について考えてみましょう。主は誰より多く礼拝に出席しているからといって、その理由でその人を褒めません。また、この時期、風邪気味だが自分は大丈夫と思い、礼拝したいと思って来ても、主は、だからといってその人を褒めません。むしろ叱るでしょう。主はその人の心の内を、その人の信仰を見るのです。もちろん人が礼拝に来ることを主は喜びます。でも動機、理由が問題なのです。礼拝に来れば主が喜ぶから、この状態でも主が守るからと思って礼拝に来ても、その人にとって一番大事のなものを得られません。何故って、主が一番喜ぶことはそれではない。だから、主に褒められないと今日の聖書は教えます。つまり、自分ではなく、主を第一に考えているかが問題なのです。主を礼拝することが他の何よりも大事だから来たかどうかです。旧約聖書には「主は、妬みの神である」とあります。これは単なる嫉妬ではありません。神は相手を激しく愛する方ですが、相手が心を反らした場合に相手を許しておかない方の面も持つことを表しています。新共同訳では「熱情の神」と訳しています。彼女は、生きる手立てとなるものより、神を選びました。だから主は彼女を褒めたのです。礼拝に来ることによって失うものがあっても、全てを主に委ね、全てを任せる程に主を第一にすることを、主は私達に求めています。ヤコブ2:17にあるように「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだもの」になってしまいます。この女性のように、行いによって、神を全面的に信頼し、神が自分の全てを見て、支え導いているとの自分の信仰を、具体的に自分の言動によって表しましょう。主に褒められる私達になりましょう。