メッセージ(大谷孝志師)

差別不要の社会 教会
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年1月17日
聖書 Ⅱコリント1:26-31「差別不要の社会 教会」  大谷孝志牧師

 この手紙を書いたパウロは、第二回伝道旅行でコリントを訪れ、一年半の間腰を据えて、この町の人々に神の言葉を教え続けました。(使徒18:11)  そして、この教会が生まれました。しかし彼は離れた後、この教会に争いがあると知らされ、教会の人々の間に深い溝が生じていると知ったのです。原因は誰が偉いか、どの指導者に付くことが正しいかということでした。ですから、彼は、彼らが主の御名により、一致するよう願い、この手紙を書いたのです。

 彼は、十字架に付けられた罪人イエスがキリスト、救い主と信じることによって、教会は真に一致できると教えます。今の私達にとっては当然なことですが、当時のユダヤ人にとっては躓き、異邦人にとっては愚かな事にしか思えなかったのです。そして、この教会の人々もそのような考えに引きずられ、真理から目をそらしてしまっていたのです。彼は、主の十字架の事実こそが立つべき唯一の真理であり、この事が神の力、神の知恵そのものと教えます。そして、この神の力と知恵は、彼らが自分自身を見れば良く分かると言います。彼らがこの教会の一員となっているのは、神に召されたからです。物流の中継基地で、商業の盛んなコリントの町に住む彼らは、比較的豊かだったようです。とは言え、上流階級の集まりではなく、高い教育を受けた者、裕福な者、能力があると世で認められた者はいても、決して多くはなかったのです。神は世に福音の素晴らしさを示す為に、皇帝や議員達という地位の高い人々ではなく、むしろ世の愚かな者、弱い者と見られていた解放奴隷、商人、奴隷等の人々を選び、神が認める聖徒としてこの教会に召したのです。そして、多くはないけれど知者や身分の高い人々が共にいる教会としました。

 様々な社会的、経済的地位の人々が混在するこの教会を通して、教会は自分と同じような人々の集まりではなく、異なった階級や背景の人々が集まり、互いを兄弟姉妹と呼び、一つの神の家族を形成することが大切と、主は私達に教えています。その多様性がこの教会に深刻な争いを生じさせていたのは確かです。しかし、神にとって救いが必要ない人はいません。神は全ての人に手を差し伸べ、御国の民となり、幸いな人となるよう招いています。その御心が、主イエス・キリストの十字架に現されていると心に刻みましょう。ですからパウロは、神に選ばれたこの教会のキリスト者の多数が、比較的地位の低い、世では取るに足りないもの、見下され、空しい者、すなわち無に等しい者であることこそが、神が主イエスの十字架の死により成し遂げ、今の世でなしつつある事のしるしだと言うのです。神は世の全ての人々を愛し、救おうとしています。そこには社会的、経済的差別はないと知りましょう。

 パウロが知らされたコリン教会に起きた仲間割れによる争いの原因は、それぞれが、パウロやアポロ、ケファ(ペテロ)、キリストに付くと言っていたことにありました。キリストを除く三人は、当時の諸教会で大きな働きをしていた人で、特徴は違いましたが、互いに対立してはいませんでした。それなのに、何故この教会の人々は自分は誰それに付くと言ったのでしょうか。
 それは同じ主イエスを信じていても、教会生活、信仰の表し方はそれぞれ違うからです。主だけを見詰めていればよいのですが、どうしても人を見てしまい、自分の信仰が主に喜ばれるものかどうか、正しいかどうか分からず不安になってしまうのです。主が直接それで良いとは言ってくれないので、自分の信仰と他人の信仰を比べて正しいかどうか判断するしかないからです。すると、当然違いが見え、それを比べてしまい、自分の方があの人達より、賢く、強いと考えたり、駄目だ、弱いと考える結果になってしまうのです

 この教会に仲間割れという悲しい事態が起きたように、違いをそう捉えると自分の生活が後ろ向きになり、教会についての見方も健全だとは言えない状態になってしまいます。ですからパウロは先ず彼らに、教会には違う人々がいることに積極的意味があるとを考えさせているです。問題の根は、人は有るものに頼ろうとし、それが有ることで自分に自信を持とうとすることにあります。しかし考えてみて下さい。世のものに頼り、自分に自信を持とうとすることの空しさは。私達も経験している筈です。この教会の人々も、勿論主イエスを信じているし、全ては主のもの、主の御手により全てが為されていると信じていた筈です。しかし私達も経験していますが、人の方から主に尋ねても答えを得られず、自分で推測するしかありません。救われ、永遠の命を与えられていても、罪を引きずったままです。神の子供とされていても、世の終りが来て、霊の体に変えられるまでは、肉のからだのままだからです。神が必要とする時に、御霊に導かれ、示される以外に、私達がいくら求めても答えは与えられません。これが私達が今生きて経験している現実です。私達もそうですが、コリントの教会の人々も教会は皆が尊敬し合い、支え合い、安心して共にいられ、互いを自分に、この教会に必要な人と思える良い教会であればと思っていたでしょう。主の体である教会だからです。ではなぜ仲間割れが生じ、争いが起きたのでしょう。この世に立てられた教会として、悪に支配されている人々の救いの為に闘う務めが与えがれているからなのです。しかし彼らは、悪魔の誘惑に屈し、悪魔に隙を与え、内紛を起こし、教会の交わりを壊し、力を削ごうとする力に負けてしまったのです。

 悪魔の誘惑は巧みです。人の自分との違いや教会の現状が自分の考えとは違うことに敏感に反応させ、自分の判断、基準でそれを取り除き、安心できる教会、自分の教会生活にしようとさせるからです。「私はキリストに」という人がいたことがその事を明らかにしています。悪魔はキリストという名を利用して、自分は信仰的に正しい事、良い事をしていると思わせるのです。だからこそパウロは、私達が信じるキリストは十字架のキリストであること、主イエスが私達の為の義と聖と贖いになったことを心に刻み、自分達全ての者がその主に招かれたから教会にいることを改めて心に刻むようこの手紙を書いたのです。彼はこの手紙により、教会にいる一人ひとりは確かに違いがあります。でも皆同じキリストの部分部分なのです。誰でも皆同じ仲間同士なのです。その信仰に立ちましょう。そうすれば同じ心、同じ考えで一致した教会になれ、世に立てられた教会として良い働きが出来ると教えられます。