メッセージ(大谷孝志師)
御言葉に従う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年1月17日
ルカ5:1-11「御言葉に従う」 牧師 大谷 孝志

 ペテロ達は夜通し漁をしたが一匹の魚も捕れず、がっかりして岸に戻り、船から降りて網を洗っていた。疲れ切っていたが、また今夜の漁の為に準備をしなければならなかったから。ここに主イエスが来て、シモン(ペテロ)の舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すよう頼んだ。彼は疲れていた。しかし神の言葉を聞こうと群衆が押し迫っているのを見て、この方の為に、その人々の為に彼は舟を漕ぎ出した。

 私達も、厭だ、したくないと思っても、そうした方が良いと思う時がある。何故、どうしてもと思うが、してまう。神は私達の全てを知る。今だけでなく、将来の事までを知る。ここで重要な事は、彼が同じ舟の中で、主イエスが群衆に教えた神の言葉を聞いた事。「強いられた恵み」だった。話を聞きたくなる状態ではなかった。しかし彼は主の言葉を聞いた。それを聞くことは、彼が主の言葉に従者となる為に必要な事だった。。私達は世の人々を教会に、礼拝に誘う。その人が救われることを望むから。人は信じなければ救われない。聞かなければ信じられない。伝えなければ、誘わなければ聞けないから。主はまず。ペテロを信じる者とする為に、彼の舟に乗り、漕ぎ出させ、その舟の中で彼を神の言葉を聞く者とした。信仰は聞くことから始まるから。その時、彼の内に御言葉に聞き従う準備ができた。4:38,39を見ると、彼の姑が熱を出して苦しんでいたので、人々が彼女のことを主にお願いした。すると、主は彼女の枕元に立ち、熱を叱り付けた。熱が引き、彼女は直ぐに立ち上がって、一行をもてなした。彼は主の権威と力を体験していた。しかしその彼に、今日の箇所の体験させた。それは、彼が主の行った奇跡を見聞きするだけでは十分ではないことを主は知るから。だから主は、群衆に話し終えた後、「深みに漕ぎ出し、網を降ろしてみなさい」と彼に命じた。

 主は何故、夜通し漁をし、何も捕れずに疲れ切っていたペテロに、漁をするように命じたのか。実はこの主の命令は、二重の意味で漁師の常識を越えていた。昼という時間帯、沖という場所では、網を降ろしても魚は捕れない。漁師にすれば全く無駄としか思えない事。主はこれまでの常識を捨てて、私に従えと命じた。主は彼に、過去の生き方、過去の経験から得た知識、それらを捨てろと命じた。彼は、今の自分には無意味としか思えないが、主の命令故に御言葉に聴き従った。

 人は誰も、全てと言って良い程、自分の為に生活している。人の為になることをしても、殆どの場合、結局は自分の為。自分生活が一番大事だから。しかし、人はそれを維持する為には自分の判断に頼るしかない。その結果、良い事も悪い事もある。しかし人にとっては一寸先は闇。常に不安や恐れ、不振が付きまとう。先が分からないから、目の前の出来事に左右され、時に絶望することさえ。だから聖書は、この闇の世界に確かにある一筋の紐の道を見付ければ良いと教える。その道は細く、闇の中なので先に何があるか、どこに行き着くのか分からない。しかしペテロは、主がそうしろと言ったからした。彼が主の言葉に従った時、それ迄できなかったし、今もできないと思っていたことができた。できたのは、命じた方が主だからできたのだと知った。そして、今度は全てを捨てて主に従った。

 主は御言葉によって私達を招いている。私に従い、人間をとる漁師になれと。信仰生活の中で、私に呼び掛ける主の御言葉に気付こう。御言葉に聴き従おう。その道は細い。それは、私達をいのちに至る門へと導く道。歩き続けることに困難を感じることも有る道。でも、主が共に歩んでくれる道。だから一番幸いな道。