メッセージ(大谷孝志師)
良心の声は主の御旨
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年1月24日
エペソ2:1-10「良心の声は主の御旨」 牧師 大谷 孝志

 今ここで礼拝している私達はキリスト者。キリスト者とそうでない人は違う。私達もキリスト者になる前と後では違う。どこが違うか。キリスト者は主の御声に聞き従える。しかし「私は御声を聞いたことが無い」という人者が殆どなのは事実。しかし、人の声のような肉声ではないが、この私達も聞いているのも事実。

 今日の聖句に「私たちは神の作品」と有る。人はキリスト者になる時、新しい人に造り替えられた。私はバプテスマを受けた時、教会の婦人に「何か変わった」と言われたが、「何も」と答えた記憶がある。自分を見詰めてみると相変わらず弱く、醜い心の持ち主だったから。しかし、今考えてみると確かに変わっていた。

 来月第四聖日、私達の教会では召天者記念礼拝を行う。主を信じて天に召された人々は、私達から見れば永遠の眠りについている。思い出すことは出来るが、直接話しは出来ない。故人を思う時、死というものの重さを痛感させられる。でも死んだ人はどうなっているのか。主を信じない者は罪の中に死んでいるので、肉体が滅びると死んだまま。しかし主を信じた者は死んだままではない。永遠の命が与えられ、肉体は滅んでも霊は生きている。この変化は、今生きている私達に既に起きている。人間の目から見れば、古いままに見え、大きな変化は感じられなくても、神によって既に大きな変化が私達の内に起きている。私達は新しい人として生きている。主イエスを信じるという細い道、狭い門を通ることによって、神の子に造り替えられているから。その一つが<良心>に現れている。人の内には誰でも良心が有る。良心は人としての正しい道、筋道を示している。しかし、生まれながらの人の良心には十分な力がない。しかし主イエスを信じて救われた時以来、聖霊は私達の良心に力強く働き掛けている。救われた人の良心は,古い生まれながらの良心ではなくなっている。古い人の時もそうだったが、良心は、私達に正しい筋道を示していた。しかし今、良心の声は、主の御旨を現す声として、私達の心に響いてくる。御霊の思いを私達に届けるパイプのようなもの。

 だから、私達が主の御旨を行って生活したいと願うなら、心を鎮め、<良心の声>に聞き従うことが大切になる。祈ったり、礼拝に出席している時だけでなく、どうしたら良いかと悩んだり、考え込んだりしている時にも、私達の心の内に響く声がある。それこそが主に新しくされた良心の声。それは、私達に良い行いをするよう示している。それが自分の心に響いた時。大切なことは「そんな事は分かっている」、「分かっているけどできないから悩んでいる」とは思わないこと。私達は出来る。主イエスの十字架の死と復活によって、私達が良心の声に従い、良い行いができるように,私達が整えられているから。だから、主の御声を聞き、御旨を行うことは、難しいことでも、神秘的な能力を必要するこどでもない。今、この時、誰にでもできること。私達も出来る。主は私達の内にある良心の声を用いて、私達に「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるか」を知らせ、その良い事をするようにと語り掛けている。

 私達は自分の良心の声に心を静めて聞き従い、御旨を行う者になろう。そして「魂が安らぎ、心が平安で、暖かい人間関係を感じ取れる生き方の出来る人になろう。」そして、自分達がそのような教会生活を送り、教会に来ている人、新しく来た人の為の麗しい潤滑油になり、主に祝福された教会となる為の良き働き人となろう。その為に自分の良心の声を大切にし、主に喜ばれる生活をしていよう。