メッセージ(大谷孝志師)
幸いな者とする主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年1月31日
マルコ4:35-41「幸いな者とする主」 牧師 大谷 孝志

 今日の個所は、主イエスと共にいた弟子達が湖上で激しい突風に襲われた話です。人生はよく航海に例えられます。昔は潮流や風任せの帆船による航海でしたから、運命に任せるしかない人生に、人は共通点を見たからと思われます。弟子達が居た湖は南北20`、東西12`で、霞ヶ浦程の大きさのガリラヤ湖です。この湖は高い山に囲まれ、海抜−213bと摺鉢の底のような湖でした。ですから気温の変化で、夕方に時折山から危険な激しい突風が吹くことがよくあったそうです。主イエスはその夕方に「向こう岸へ渡ろう」と言ったのです。弟子達の中には、少なくてもペテロを始め4人の漁師がいました。それなのに、彼らは何故危険を承知でその夕方に漕ぎ出したのでしょう。当然不安はあったでしょう。でもそうするよう主が言ったからには、大丈夫と思ったからだと思います。私達も進学、就職、結婚、転居と人生の中で新しい旅立ちを経験します。この学校、会社、場所、この人なら将来は安心と思っていても、不安や恐れはあり、それが現実になることもあると思います。

 弟子達も、激しい突風に遭い、内心抱いていた不安が現実になりました。私も、主イエスを信じれば順風満帆の生活が出来るとは限らない、むしろそう思うのは間違いだと、何度も思わされました。皆さんも、主を信じていても、自分や愛する人の病気や事故に遭って生活が一変したり、信頼していた人に裏切られたり、掌を返したような態度を取られたりしたらどうするでしょうか。主を信じていても、信じていなくても人は同じような危険に曝されます。しかし、どんな中でも信じることを止めず、生き生きと礼拝を守り続ける多くのキリスト者がいることを私は知っています。悩み悲しみや苦しみがなくなったからではありません。なぜそんな事が出来るのかと周囲の人々が不思議に思うほど落ち着いて物事に対処する人もいます。なぜでしょう。それはイエスを信じていると、自分が直面している事、自分が、或いは置かれている状況について、正しい受け取り方、受け止め方ができるからです。
 イエスは弟子達に「向こう岸に渡ろう」と言っただけです。主はその時、今は夕方でも、湖に舟を出しても大丈夫なのだと言って舟を出させたのではありません。つまり、安全を保証した上で「向こう岸に渡ろう」と言ったのではないのです。主は彼らを危機に直面させる為に舟を漕ぎ出させたのです。人は自分の生活が安全、安心だと自分は幸せだと思います。だからそれを保証するお金、物、人等を先ず求めるのではないでしょうか。主はそれらのものが人を安全にし、安心させ、幸いだと思わせるのではないと分からせる為に、夕方のガリラヤ湖に漕ぎ出させたのです。それは、神が人の為に計画を立て、実行し、実現すること、人が直面し、経験している事には、人には分からなくても神の目的があること、その二つを彼らに教える為だったのです。エレミヤ29:11の「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」との御言葉が真実と知らせる為です。

 イエスは彼らに、この後、どのような事態に直面しようと、神が計画し、行っていると信じれば良いと教えようとしたのです。それが福音だからです。

 主イエスは舟の船尾で枕して眠っています。弟子達は、荒れ狂う波と風で波が舟の中に入り、舟が水で一杯になり、死ぬかも知れないと恐れています。私達は信仰生活の中で、主が共にいるのに、私達はどうしてこんなに苦しまなければならないのか、主はどうして私の祈りに沈黙のままで答えないのかと感じ、挫折しそうになった事はないでしょうか。彼らは主を起こしました。しかし、主が起きれば、主が波と風を鎮めるとの確信があった訳ではありません。もしそうであれば、もっと違った起こし方をした筈だったからです。言うなら、溺れる者は藁をも掴む程度の信仰の持ち主でしかなかったのです。

 ですから主は、水で一杯になった舟の中で平然と眠っていました。それは、大丈夫、決して死ぬことはないと彼らに教え、自分達が置かれている今の状況についての受け取り方が間違っていると気付かせる為です。確かに危険な状況です。しかし実は自分達は安全なのです。主が共にいるからです。しかし彼らには、自分達は安全だと思えません。私達もそうですが、目の前の事は真実で確かな事でも、先の事は不明、不確定な事としか思えないからです。

 パウロは「神は真実な方。あなたがたを耐えられない試練に遭わせる事はしない。耐えられるよう、試練と共に脱出の道を備えている」と言いました。

 昔、教会の青年会で淡路島に行った時、気付くと満ち潮で全員の足が底に届かず、溺れるかと思いました。しかし沖に流されないように、細いロープが張ってあり、それに必死になって捕まった私達は全員助かりました。弟子達も溺れ死ぬかと思っても、死ぬ危険はなかったのです。しかし眠ったままで、何もしない主を見て、大丈夫なのかとの不安になり、不満をぶつけたのです。
 主は起き上がると、風を叱り付け、湖に「黙れ、静まれ」と言いました。すると風は止み、凪になりました。彼らにはひとりの人にしか見えない主は、全てを支配する神だからです。主は彼らに、怖がったのは信仰を持っていないからと言います。彼らは自分の仕事も家族も捨てて、主の招きに応えて、主と共に生活していました。そうすれば幸いな人になれると信じていたからです。主と共にいれば幸いな人になれるのではありません。私達もそうです。主イエスを信じ、主を礼拝し、自分は主に従っているだけでは幸いな人になれないのです。主がどんな方かを知らなければ幸いな人になれないのです。

 主が危険な時に舟を出させ、死ぬかも知れない恐怖を味合わせたのは、共にいる主がどんな方かを彼らが知る為です。この試練こそ、主が自分達にはどうにもならない自然現象すら、意のままに支配する力ある方と知る恵みの時だったのです。私達が、目の前の事実に脅え苦しむ時があったとしても、それは、主が一切を支配する力と権威を持つ方と知る為の恵みの時なのです。心の目を開き、その事を知りましょう。すると、心から自分は主を信じていて良かったと思えます。主は私達を愛し、信じ切る者、真に幸いな者とする為に様々な試練を与えます。でも耐えられない試練は決して与えません。主は救い主です。どんな時でも自分は幸いな者と分からせてくれる方なのです。