メッセージ(大谷孝志師)
神の憐れみによって
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年2月7日
ローマ9:14-18「神の憐れみによって」 牧師 大谷 孝志

 私は今牧師をしている。先輩や後輩の死を何人も経験した。豊かな能力を持ち、責任ある仕事をしている人が突然天に召された。何故、その人を主が召されたかと考え、その人達と自分を比べて、自分は何故今も生かされているのかと考えさせられることがある。正直言って、教会の中で十分な働きをしているとは言えない。牧師は一人、信者・未信者は大勢だから、当然色々な見方をされていると思う。私自身について人伝に話を聞くこともある。本人が直接行ってきたことは真剣に受け止めるか、人伝の場合は余り気に掛けないようにしている。本人の評価と伝えた人の評価が微妙に入り交じり、足したり引いたりされているから。とは言え、人の評価は気になる。神がこうだとはっきり語り掛けてくれば良いが、そうはいかないから、人の評価で自分を判断しそうになる。自分は完全ではないから、当然問題が生じることがある。そこで、自分以外の者の方が相応しいのか、自分に取って他の教会の方が相応しいのか考えたりしたこともある。しかし、自分が遣わされた教会で牧師として働くことができているのは、神がそうさせていると考えることが正しいと気付いた。全ては神の御心次第なのだと。あの人が死に、この人が生きているその理由を幾ら考えても、何も生じない。人が問題ではないから。

 今日の聖書に「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」とある。これが私が立つべき原点だと主が示したと感謝した。

牧師だけでなく、全てのキリスト者にとって原点である。私達は今生きている。様々な奉仕をし、自分にできるかたちで福音を伝えている。人の評価は様々。だが、その人が優れている、劣っている、勤勉だ、怠惰だと考えても始まらない。全ての人は、主のあわれみによって生かされ、働きの場と相手を与えられている。

 更にパウロは「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされる」と言う。彼は、絶対者である神の御心ままにしか生きられない私達人間の現実を教える。しかし御心ままにしか生きられないとしても、私達の心に「何故、あの人に許されることが私に許されないのか」とか「何故、あの人が私にあのようなことを言うことが許されるのか」という疑問が生じることがある。それは人が陥りやすい錯覚と彼は教える。何故かと思う時、その人は神に不正がると錯覚している。自分は正しいと思い、その基準で神を計り、神が正しい事をしないと不満を持ってしまうから。彼はこ書の3:10で「義人はいない。ひとりもいない」と言った。人はみな罪人。神は憐れみにより、私達を生かし、主のものとし、生かしている。神は気ままに好き勝手な事をする方ではない。私達に御子を与える程に私達を愛している。私達を憐れみ、永遠の命を与え、御国に上る道を歩ませている。そう信じている。しかし、神を信じるとは、全ての事を神は御心のままに行い、求める私達に良いものを与えている方と無条件に信じること。

 すると、あるがままの私と相手、置かれている状況や直面した事態を受け入れ、「自然体」ならぬ「信仰体」で生きられる。滅ぶべき私が神の憐れみにより、神の民とされ、神の為に用いられているとのこの信仰者の原点に立とう。信仰者は皆、神の憐れみによって生きることを許されている神の憐れみの器。神が御心のままに全てを行っていると信じると、私と関わって来る人の行為を見て「神のなさることは、すべて時にかなって美しい(伝道の書3:11a)」と見られるようになる。そして私達は、そこに備えられている喜びに満ち溢れる人生と交わりを見出せる。