メッセージ(大谷孝志師)

自由、でも責任はある
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年2月14日
聖書 マルコ14:1-21「自由、でも責任はある」  大谷孝志牧師

 今週水曜から受難節に入ります。受難節は灰の水曜日と呼ぶ2月17日に始まり、中の6聖日を含む46日間です。第二週はマルコの福音書を通して学んでいます。今日はある女性がナルドの香油を主の頭に注いだ話とそれに続くユダの裏切りの話を通して学びます。ここは受難節を迎えるに相応しい話です。マルコがここで主の十字架の死の意味を知らせているからです。ヨハネとルカにも同じように香油を主に塗った記事があります。しかしそこでは、女性が香油を塗ったのは足であり、女性をヨハネはベタニアのマルタの妹マリア、ルカは罪深い女と記していて、別の似た出来事と考えられています。

 主はこの時、ツァラアト(重い皮膚病)に冒されたシモンの家にいました。人々が自分も汚れるとして家に入るどころか近付かなかった家です。1:41で、主は、同じ病気の人に手を伸ばして触ったように、主はどんなで人も受け入れる恵みと慈しみに富む方です。その主の食事中に女性が家に入って来て、持参した純粋で非常に高価なナルド油が入った小さな壺を割り、主の頭に注いだのです。同席の何人かが言ったように、当時の労働者の年収分に当たる三百デナリ以上に売れる非常に高価な香油でした。人々は憤慨し、厳しく責めました。売ったお金を貧しい人達に施した方が良いのにと思ったからです。彼らが無駄と思ったのは、この世の常識で判断したからです。しかし、主は違います。「彼女を困らせてはいけない。私の為に良い事をしたのだから」と言ったのです。主はその人の心を見て下さる方なのです。そして彼女が、自分に出来る事は何かを考え、今出来る良い事をしたのだと彼らに教えました。私達も、自分の物をどう使うかは自分の自由と思っても、相手の物の使い方の場合は、自分の基準で評価し、非難したり、責めたりすることがあります。自分は正しいと思うからと言って、自分の考えを相手に押し付けないよう注意することが大切なのだと、イエスの彼女への言葉を通して教えられます。

 この時の彼女は、主が死んで葬られると分かっていたから、主の頭に香油を注いだのではなく、自分にとって、主に感謝を献げるのが今だと思い、主に最上の物を献げたかっただけと思います。しかし、それが十字架に掛かって死ぬ主の埋葬の準備になったのです。私達は、主が彼女の素直な感謝の気持ちを喜び、受け入れ、称えたことに目を向けましょう。私達は今主を礼拝しています。主は十字架に掛かって死んだけれど、復活して、今ここに私達と共にいるからです。しかし、主が共にいる事を何か当たり前の事のように思っていないでしょうか。この方は私の罪の為に死んで下さった方だと心から感謝しているでしょうか。更にこの礼拝に限らず、日常生活の中で、彼女のように最上のものを献げて主への感謝を表しているでしょうか。主の十字架の死を心に刻む受難節を迎えるに当たり、主イエスが私の罪の為に十字架に掛かって死んだこと、そしてその主が今も生きて私を守り導いていることを心に刻み直しましょう。主が彼女の思いを知って彼女を褒めたように、私達が主に心からの感謝を献げるなら、主は私達のことも喜んで下さいます。

 マルコはこの女性の話に続いて、主の弟子であるユダが、イエスの殺害を謀る祭司長達に引き渡す約束をした話を記します。彼らが金を与える約束をしたこと、彼が主をうまく引き渡す機会を伺ったことから、ユダの裏切りが自分の利益と保身の為の行動だったことを示します。祭司長達もユダも、自分の利益と立場を守る為に、自分の思いを実現しようと思い行動したのです。

 ここで、ユダが十二弟子の一人と強調されています。これは、主を信じ、救われ、主に従って生きていても、人は自分の思いや判断ですべき事やその価値を決めてしまう弱さと持つことを、これを読む私達に気付かせる為です。つまり私達も、問題に直面すると、彼らのように主の御心でなく、自分の願いの実現を優先させてしまうからです。マルコはここで、主の十字架の死の備えをした祭司長達とユダ、彼らと全く正反対の行為をした女性の美しい姿を共に記すことで、何を私達に教えているのでしょうか。彼は、人の罪は確かに根深く強いけれど、主を信じる者には、主を真っ直ぐに見詰め、自分に出来る事を素直に行って主に仕える者となれる可能性を持つと教えています。何故なら、その道を全ての人に開く為に、主は十字架の道を歩んだからです。

 ですからマルコはこの日を「種なしパンの祭りの最初の日、過越の子羊を屠る日」と強調します。神がイスラエルを奴隷の地エジプトから導き出す時に、イスラエルの人々が主に命じられた通りに家の二本の門柱と鴨居に屠った子羊の血を塗り、主がその家だけを過越し、全ての長子を生かしたように、主イエスの十字架の死が、主の流された血によって、神が愛する全ての人を罪の世、悪が支配する世界から救い出し、主イエスが支配する神の国に導き入れる恵みの御業だと示す為です。その大切な過越の食事の場所と用意を尋ねた弟子達に、主は細かく指示を出します。私達は主を信じていても、先の事が分からず、信じていれば良いのかと不安になることが多いと思います。しかし主は全てを知る方なのです。ですから、御言葉が心に響いたら、その主を信じてその通りに行えば良いのです。二人の弟子が出掛け、エルサレムの町に入ると、主が言う通りでした。聖書は、御言葉は行動することによって確かな事だと分かると教えています。さて夕方になり、主と弟子達が食事をしている時でした。主はここにいる一人が私を裏切ると言います。ユダが裏切ると主は既に知っていたのです。しかし、主がユダを選び、彼に強いたとは書かれていません。裏切りの責任は彼にあるとだけ示しています。これは大事な点です。何故なら、主を裏切るユダも香油を主の頭に注いだ女性も自分の思い通りの事をしたのです。人は自由なのです。しかし神は全てを知っています。そして人を用いて御心を行わせ、全ての人の為に立てた神の計画を実行させるのです。私達は主のもので、主に生かされています。でも、何をするかは自由なのです。しかし責任は自分達にあります。ユダも女性も自分がした事の報いを自分が受けているからです。大切な事は、先ず自分が主の為に生きようとすること、主に喜ばれる者になろうとすることです。私達は自由です。自分の為を優先するか、主の為を優先するかのどちらも選べます。「自由、でも責任はある」この事を心に刻んで受難節を過ごしましょう。