メッセージ(大谷孝志師)
信仰には努力も必要
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年2月14日
ピリピ2:12-16「信仰には努力も必要」 牧師 大谷 孝志

 ピリピの教会にも不平を言ったり、疑って掛かる人達がいた。礼拝に来る人は問題があってもそれは神に委ねれば良いと知っているので、不平や理屈を言う人は少ないと思う。それでも人間の集まりなので、それが表面に出てしまうことが。しかし不平や理屈は教会の交わりや働きを後ろ向きにさせる。共に何かしようと努力するより、あの人はああいう人との思いが先に立ち、溝が出来るだけでなく、疎外する場合もある。パウロは不平を言うな、疑念を持つなと言うのではない。

相手への不平不満を押し殺して、その人に従えと言うのでもない。従う相手は神。彼は神への絶対的服従を求めている。教会の主、私達一人一人の主は神だから。相手への不平不満が出来ると、その人しか見えなくなり、神が全ての決定権を持つ方だと言うことを忘れてしまう。パウロが、今日の個所の前で「(キリストは)自らを低くして、死にまで(神に)従われました」と教えたのは、そんな私達の為。

 今週水曜から受難節に入るが、彼は自分を捕らえ、嘲笑、侮辱する人々に従順だった主の思いをあなたがたの間でも抱けと命じる。主が死にまで神に従順だったように、人に従順だったと教えるのは何故か。教会の一人一人が同じ思いとなり、同じ愛の心を持つことが、教会とって欠かせないことだから。しかしこれは簡単なようでとても難しい。神に従順であろうとは思っても、人にとなると、相手の様々な面が見えてきて、とても従順になれない、逆に神に対するように、相手に従順であろうとすると、相手を神聖視する危険性を孕んでしまうこともある。

 だから19節の「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」との御言葉無しにそれをすると危険になる。私達はこの御言葉を信じることによって、「すべてのことを、不平を言わずに」行える。勿論、だからと言って他人の言うことに黙った従え、と彼が言うのではない。相手の内に神が働いていると知ることは、本当に素晴らしい。それは自分の内に働く御霊によって知らされて行う事だから。自分をその御霊の働きに委ねれば良いと彼は教える。しかしその為には、自分を殺さなければならない。殺すと言っても、肉体を殺すと言うことではない。主が「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい(マルコ9:34)」と言ったように、自分を捨てて主に従うこと。私達はそのように主に従いたいと願って、信仰生活をしている筈。しかし簡単なようでとても難しい。主を愛し、御心を行う者になりたいと思って生きていても、自分の利益のみを求めていることが殆どなのが私達の現実。刹那的欲望の虜になってしまうから。でもそれでは、私達の生き方によって教会をキリストの体として世の人に示すことはできない。

 だからパウロは、その為に彼らが「神の恵みを正しく受け止め、救いの達成という責任を果たせるよう」「命の言葉をしっかりと握って、人々の間で世の光として、星のように輝くように」願う。そして「キリストの日に私自身が自分の努力が無駄でなく、自分の労苦したことも無駄でなかったと誇」れるようなって欲しいと願っている。どうすればそのようない生き方ができるか。それには先ず自分が「すべてのことを不平を言わずに疑わずに行」う努力が必要。神が事を行わせると信じて、黙々と地道に努力を積み重ねていくこと、それこそが私達の信仰生活と教える。世で主の証人、世の光、地の塩として生きるには努力が必要と知ろう。神の働きを信じて、自分が努力を積み重ねることを神は喜んで下さるから。