メッセージ(大谷孝志師)

御霊によって生きる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年2月21日
聖書 Ⅰコリント2:1-16「御霊によって生きる」  大谷孝志牧師

 私達は、自分達が信じている福音は、世の人々に理解して貰うのは殆ど不可能と考えていないでしょうか。しかし、パウロは福音を信じていない人々に福音を伝える使命を主に与えられ、その使命を果たす為に、エーゲ海の周囲の町に住む人々に福音を伝え、エペソ、ピリピを始め多くの教会が彼の福音宣教によって誕生しました。彼から初めて福音を聞いた人々が信じたのです。そしてその地に教会が誕生したのです、私達は周囲の人々が福音を知らせても教会に来ない、信じない事実に直面しても諦める必要はないのです。自分が初めて教会に来た時を思い出してみましょう。その時、皆さんにとって教会は初めての場所だった筈です。でも、皆さんは今ここにいます。何故でしょう。教会という場所、そこにいる人々に魅力を感じたから続けて来たのではないでしょうか。でなければ来るのを止めたでしょう。私の場合、教会の人々の生き方、考え方がそれ迄の友人、知人とは違っていました。彼らは主イエスを信じ、喜んで生きていました。でも、それが思い込みかどうか、真理かどうか私には分かりません。それ以上に、彼らが信じる主イエスという方が今も生きていて、大きな影響力を持つことが理解できませんでした。でも行き続けたのは、彼らの生き方に不思議な力、魅力を感じたからです。

 コリント教会は主に遣わされたパウロの福音宣教によって誕生しました。町にはユダヤ人もギリシア人もいました。彼らは福音を聞きましたが、ユダヤ人にとっては躓き、ギリシア人にとっては愚かなことだったのです。到底信じられないことだったからです。 私も、十字架の死にどんな意味があるかと考える以前に、死んだイエスが今も生きているだけでなく、目に見えないけれど自分達と共にいる救い主だとはとても信じられませんでした。この地域の人々、教会に来ようとしない私達の家族、友人も同じだと思います。

 パウロは大きな壁に阻まれました。でも諦めません。とは言え、彼らが驚き、感心する言葉や知恵を用いて納得させようとは思わなかったと言います。神が、十字架に付けられて死んだイエス・キリストを、救い主と信じるという世の常識ではとても信じられないことによって人々を救おうとしているからです。彼はこの町にもローマ11:4で言うように「バアル(偶像)に膝を屈めない七千人を残している」との信仰を持っていたので、十字架に付けられて死んだ主イエスを救い主と信じるなら救われると福音を大胆に伝えたのです。

 福音を伝えるパウロに敵意までは持たなくても、無視したり、距離を置く人々が多かったと思います。何故、彼は福音を伝え続け得られたのでしょう。その理由は私達も知っていなければならない大切な事です。彼が言うように、「宣教は、説得力のある知恵の言葉によるものではなく、御霊と御力の現れによるもの」なのです。人をこの世の知識で納得させ、感心させなくても良いのです。その人が十字架に付けられて死んだイエス・キリストを自分の救い主なのだと信じられれば良いのです。目に見えないがこの世にある、神が支配している世界に飛び込み、人生観、世界観の転換が起きれば良いのです。

 人が主イエスを信じて救われることは、実は不思議なことです。ですから彼は福音を「神の奥義」と呼びます。この「十字架に付けられたキリスト。しかも、死んだキリストが復活して今生きている」事実を世の人々に証をしても、世の人にとってそれは証明にならないのは当然です。キリスト者の考え、更には思い込みに過ぎないと受け取るだけです。それでも私達は、十字架に付けられたキリストが福音そのものであり、それを信じる者が救われ、永遠の命を受け、神の子とされると伝え続ける必要があります。パウロ自身も、最初は福音を知らされても信じませんでした。しかし、復活のキリストに会い、真理を知らされ、彼は変わったのです。福音は真理であって奥義(神秘・ミステリー)なのです。この世の知恵では理解できないことであり、私達が福音を伝えても世の人が理解できないのは当然なのです。私達も以前は彼らのように福音を福音として聞けなかった筈です。何故信じたのでしょう。殆どのキリスト者は求めて得たのではないと思います。論理的に納得したからでもないでしょう。福音が真理と理解する出来事が自分の内に起きたのです。不思議と言うしかありません。パウロが言うように、神が御霊によって啓示したのです。奇跡が起きたのです。今主を信じている人は、主イエス・キリストの死と復活、そして臨在を否定できません。彼のように、自分が確固たるものと考えていた人生観・世界観が全く変えられてしまったからです。

 パウロがこの奥義について教えるのは、この教会の人々が自分の信仰を確かなものとする為に、そして世の人が福音を信じ易くなるようにする為には、御霊による啓示に頼るのではなく、人の知恵に頼った方が早いし、相手に判り易いと考えているからです。それは間違いなのです。彼は、福音は神が恵みとして私達に与えたものだということを忘れてはいけないと教えています。福音は御霊に教えられた言葉で語るしかないからです。相手の魂に届かなければ奇跡は起きないのです。御霊が教える言葉は、異言のように意味の分からない音のようなものではありません。私達が相手に十字架に付けられたキリストを伝える時の言葉なのです。私達自身は自分の言葉を話していると思っています。しかし考えてみて下さい。自分の考えから出た言葉でしょうか。御霊に教えられ、自分がそうだと納得した言葉です。御霊の言葉なのです。ですから、世の人には愚かなものとしか受け取れず、理解できないのです。しかし私達は、自分が十字架と復活の主の臨在を信じて相手に伝え続けます。そして神が必要とする時、御霊が御力をもって働き、真理として相手に伝わるのです。私達にもその奇跡が起きたから、今こうして主イエス・キリストを礼拝しています。人が主イエスを信じるとは奇蹟です。でも福音を伝えたいと思っているのは、奇蹟が私達に起きたからです。主が相手に奇跡を起こすと信じましょう。福音宣教は、御霊に属することなのだから御霊によって判断すればよいのです。世の人の判断に動揺し、福音を伝えることに躊躇する必要はありません。私達は自分の思いで行動しているのではないからです。御霊が私達の内に働いて、行わせていると信じましょう。私達の内に奇跡が起きています。共にいる主の御心を私達が行える奇跡が起きているからです。