メッセージ(大谷孝志師)

栄光の終わりが待つ人生
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年2月28日
聖書 伝道者11:1-10「栄光の終わりが待つ人生」  大谷孝志牧師

 今は受難節だが、今日は召天者記念礼拝、主が天に召された方々を偲びつつ、生きている者と死んだ者の主を礼拝する日です。信仰者の歩みについて御言葉を通して学びます。召された方々にはそれぞれの人生がありました。

 私の両親は、母は60歳、父は71歳で共に高齢で主を信じて救われました。母は私の最初の妻が亡くなった後、二人の子を見ながら、保育園長と牧師をするのは大変と、助産婦の仕事を辞めて手伝いに来ました。しかし孫の世話は大変で、苦労に苦労を重ねる中、主イエスに全てを委ねるしか無いと気付き受浸しました。母は若い頃、通学途中の教会から流れる讃美歌に心惹かれ、私が幼い頃に、西ドイツの女性宣教師の家庭集会に誘われ、私を連れて出ていました。その後は観世流の謡曲に父と共に熱中、教会から離れていました。しかし、主が電電公社の分譲住宅に当選させ、熱心なキリスト者の父の先輩夫人がいる柏に転居させたのです。誘われて礼拝や家庭集会に出席した母は、私が受浸を決心した時、共に受浸を希望しました。しかし助産師の仕事と謡曲の会の為、日曜礼拝に殆ど出られなかったので、牧師に礼拝に出られるようになってからと言われて諦めました。しかし主は、嫁の死という試練の中で入信の機会を与えたのです。父は戦前、丁稚奉公先の家が伝道者を呼び、家庭集会をしていて、主人の命令で出ていたそうです。母が東京の家庭集会に出ていた時も柏の時も積極的ではなかったようです。でも柏では、出られる時は夫婦で礼拝に出ていました。私が牧師になって17年後の秋でした、柏教会一泊研修会で、別の職場の先輩キリスト者に、息子が牧師なのにお前が信者にならないのはおかしいと言われ、その年のクリスマスに受浸しました。自宅に能舞台を造るなど、自分が好きな道を歩み続けた両親です。時に凄まじい事もありましたが、喜怒哀楽を数々経験しての人生でした。私は両親にキリスト者になって礼拝を大切にして欲しいと言ったことはありませんでしたが、主は不思議な方法で両親を救いに導き、今御許で平安を与えています。

 伝道者が言うように、人は一切を行う神の御業を知り得ないと改めて感じさせられています。しかし、神は人の全てを知り、必要な物を与え、助け導く方なのです。彼は「すべて、起こることは空しい」と言いますが、皆さんが今は亡き方々の人生を思い返す時、全ては空しいでしょうか。決してそうではないと思います。過ぎ去ったことはどうにもならず、空しさを感じることはあります。確かに人生は山あり谷ありです。しかし今思うと、苦楽は共に恵みです。共にそこから新しいものが生み出されていたのではないでしょうか。私も今は亡き人々の人生を思う時、決して空しくはないと思わされています。何故なら、全てのことは御心によるからです。それに、神その一人一人を愛し、必要な時に必要な事をして下さっていたと思い返せるからです。

 さて、今日の聖句「パンを水の中に投げる」は、教会のトラクトをポスティングする時によく使われ聖句です。しかし人が人生を振り返る時、正にこの聖句が当て嵌まるのではないかと私は思いました。昔、失意の友を励まそうとして関わったら、余計なお世話と言われました。家族の為に労しても無駄になったり、怒りを買うこともありました。しかしこの伝道者が言うように、人はそれを承知の上で、しなければならない事はしなければと、自分なりの努力を積み重ねながら生きているのではないでしょうか。でも、必要だと思う事をしても、必要でないと思えばしません。でも何が正しいか、何が良いことか分からなので、結果的に右往左往してしまうのが、私達を含めた人の現実ではないかでしょうか。しかし、聖書は「主イエスを信じ者は救われる」と教えます。主イエスを信じると、動揺して混乱しかけても、そこで踏ん張れるのです。ですから主イエスを、神を信じる人は平安に日々を過ごせます。一切の事は神の御業と知るからです。私が神学部に進む決心をした時、一人息子の私のことを心配するだろうと、牧師が両親に説明に来ました。その時、母は「息子が17歳になったらお前の手から離れる。と神に言われた」と話したそうです。確かにどうなるかは判らないけれど、神がそう言ったのだから私は心配しませんと母は言ったそうです。人には様々な選択肢があります。どれが成功するかしないか、思い通りになるかならないか、どちらも成功するかは、人には分かりません。でも神に任せれば良いと知るから、自分に出来る事、しなければならない事をしていれば良いと知り、安心して物事に臨めるのです。私はそれがキリスト教の救いの大きな要素だと思います。勿論楽しい事もあれば辛い事もあります。今御許にいる方々もそんな経験をこの世で幾つもしていたと思います。でも、神がいると判ると、先の事はどうあれ、今の事に集中できるのです。3:11で伝道者が言うように「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と知り「心に永遠を与えられ」ているから、目の前の事に左右されず、先の事は神すべてご存じと安心できます。

 勿論、人生は楽しむこともできるが苦しみも避けられません、思うようにできないし、できても結果は思い通りになりません。全ては空しいと言えるかもしれません。天の御国に召された兄姉は空しい人生を送ったのでしょうか。その人々が自分の思う道を、思う通りに歩めたかどうか、更には、世で幸せだったか不幸せだったかは本人にしか分からないことでしょう。しかし、今、御国で幸せなのは確かなのです。でも天の御国は私達のいる世とは隔絶した世界です。ですから私達は年に一度この日に、召された人々を偲びます。それぞれの歩みを思い起こし、神が主権をもって育み、歩ませたことを思い、私達も安心してその主に全てを委ねて生きれば良いと知る為の日なのです。故人は個性も能力も各々違います。でも神はその全てを知り、この世で歩ませたのです。私達のこの世での歩みも同じです。自分と他人の人生と照らし合わせ、悩み悲しむ必要はありません。皆、神が与えた人生を歩んでいるのです。主イエスを信じていても人である限り、思いのままに歩むしかありません、しかし主が御国の門で迎える人生、栄光の終りが待つ人生なのです。黙示録14:13に「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」御霊も言われる、「しかり。その人達はその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」とあります。この御言葉を信じ、世で生き生きと生きる者になリましょう。