メッセージ(大谷孝志師)
死には先がある
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年2月28日
ヨハネ11:17-27「死には先がある」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは、ベタニア村のマルタとマリアの使いから、姉妹の兄弟ラザロが病気なので来て下さいと頼まれても、ヨルダン川の川向こうに滞在したままだった。そして二日後、主は彼が死んだのをご自身の力で知り、弟子達と共にその村に来た。彼が死んで葬られ、四日経っていた。私達は愛する者やその家族が病気になった時、癒やしを主に求める。聖書を通し、主が病気を癒し、死人を生かす素晴らしい力ある方と知るから。しかし求めても実現しないこともある。その時、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死ないようにできなかったのか」とある者達が言ったのと同じような呟きを発してしまうことがある。自分が愛する者を天に召された時は特に。「御旨だから事実をそのまま受け止めなければ」という思いと「でも、何故、どうして」という思いが心の中で激しくぶつかってしまう。人は弱い。信じていても信じ切れない。頭では判っていても、悲しみ、悔しさが心に湧き上がってしまう。主はここに来る前に、弟子達にラザロの死を告げ、彼らの為に私がそこに居合わせなったこと喜ぶと言った。主は今生きている人々の為にラザロをよみがえらせる。しかし主が知らせようとしたのは、ご自分が死人を甦らせる力があることではない。「主が甦りであり、命であり、主イエスを信じる者は死んでも生きる」という事実。マリアはこれを信じるかと主に聞かれ、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」と的確に答えた。しかしその後、マリアを呼びに行くが、その言葉に、ラザロが自分の目の前で甦るとの喜びは感じられない。39節でも主にラザロの墓の石を取り除けなさいと言われた時も、死んだから「もう臭くなっています」と応えた。

 昔、ある教会員の女性が召された後、病院関係者とのお別れの式があった。その時、司式者が彼女は自分の病状を知りながら、「私だけがどうして」と一言も言わなかったと話した。担当医も彼女に「病状を正確に知らせて欲しい」と言われ、患者と相談しながら治療できたことは、ホスピスでも非常に珍しいケースだったと話した。彼女は主イエスが復活であり、命であると」と信じる信仰の素晴らしさを証ししていた。そして、事実をそのまま受け入れ、希望を持ち続け、他の患者にも良い影響を与えていたとのこと。人は悲しみ、苦しみに遭うと、何故、どうしてと言う思いが先に立ってしまう。しかし、それは何の解決にもならない。永遠の命を信じ、自分の今の状況をそのまま受け入れる時、たとえ、それが死に直面する状況であっても、その中で、主が示す自分に出来る事が見えてくるという復活信仰の素晴らしさを彼女の死を通して知らされた。息子さんが「母は最後に有り難うと言って天に召された」言っていた、最後まで主が平安に守っていた。

 私達はマルタのように主イエスが甦りであり、命であり、主を信じる者は死んでも生きると信じている。でも主が見えず、自分の目や手で主の存在を確認することを求めたくなる。だから主は「見ないで信じる人達は幸い」と言う。生と死をそのまま見詰める信仰、十字架に掛かって死に、復活した主が私と共にいる事をそのまま受け入れる信仰に生きよう。その信仰が私達の生き方を力強くする。
 私達は今朝、主にあって天に召された人々を偲び、生きている者と死んだ者の主を礼拝した。その方々は今も御許に生きている。主が永遠の命を与えたから。その事を信じ、どんな状況に置かれても、主が共にいるとの信仰を堅く保とう。主は私達に平安を与えている。その主に全てを委ね、安心して生きる者となろう。