メッセージ(大谷孝志師)

遣わす主が共にいる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年3月7日
聖書 出エジプト3:1-12「遣わす主が共にいる」  大谷孝志牧師

 今日は受難節の中の主の日、主イエス・キリストの十字架の死によって、罪が支配する人生から救い出された私達が、主が復活し、共にいることを感謝し祝う日です。今日は、出エジプト記のモーセの召命記事を通して、主イエス・キリストの十字架の死の意味を学びます。主イエスは何の為に十字架に掛かって死んだのでしょうか。罪に支配された霊的闇の世に生きる世の人々を救い出し、神が支配する光の世界に導き入れる為です。その意味を何故学ぶ必要があるのでしょうか。世の人々が救われる為には私達の働きが必要だからです。私達自身が他の人々の働き掛けによって、自分が闇の世の中で、何も判らずに生きていたのに、教会の人々に主イエスについて教えられ、主を信じ、平安を与えられ、希望をもって生きる者となっています。その主が人々に私達と同じ恵みを与える為に、私達の働きを必要としているからです。

 主はモーセに、エジプトで奴隷状態にある自分の民イスラエルを救い出す使命を与えました。当時のエジプトでは、生まれた男子は皆殺せと王が命じていました。彼はイスラエル人の子として生まれたのですが、母の配慮により、エジプトの王子として育てられました。しかし、ある事件で王の怒りを買い、アラビア半島北西部のミディアンの祭司イテロのもとに逃れたのです、そこで彼の娘と結婚し、義父の羊を飼っていました。ある時、彼は羊の群れと共に、そこから数百㌔離れた紅海対岸のシナイ半島の先端近くにある神の山ホレブに来ました。すると、神が柴の茂みの中の燃える炎の中に現れたのです。彼が不思議に思い、茂みに近付こうとすると、神は彼に近付くな、履き物を脱げと命じたのです。私達は主を礼拝する為に会堂に入っても、履き物は脱ぎません。しかし聖書は、私達が礼拝している場所は聖なる所と知り、心の履き物を脱ぎ、主の御前にいると自覚することが必要だと教えています。

 神は彼に「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介します。神がどんな方かを知ることが必要だからです。私達が神を礼拝しているのは、教会に来て、十字架に掛かって死に復活したイエス・キリストが万物の主、全被造物の主、教会の頭であり、私達と共にいると信じるからです。そして来続けています。主イエスがどんな方かが判り、人生が変わったからです。神はモーセが与えられた使命を果たす者とする為に、彼を変える為に、ご自分が誰かを明らかに示したのです。

 アブラハムは、神が見える姿でご自分を示したので、神を見るのを恐れ、顔を隠しました。神が自分の前にいると自覚したからです。私達には主イエスの姿は見えません。だから、顔を、心の目を真っ直ぐに主に向けましょう。主が目の前にいると自覚することです。主の臨在を信じると、私達の人生も変わり、その歩みが確かなものになります。この信仰的覚醒が私達に必要なのです。かも知れないでなく、確かにいると信じるなら、私達は真の神を礼拝していると判ります。真の神を礼拝するなら、神が自分の全存在を掛けざるを得ない神と分かります。それが判って礼拝している人を、神は喜びます。

 神は、彼に使命を与える理由と目的を示します。イスラエルが苦しみ叫ぶのを神が知ったから、「彼らをエジプトから救い出し、広く良い地、父と蜜の流れる地に導き上る為に、わたしは、あなたを(エジプトの王)ファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と。

 しかし、モーセは神にそう命じられても、自分が何故そんな事をしなければならないのかと神に尋ねました。二つの理由を彼は神に示します。一つは自分はそんな事ができる者ではないということであり、もう一つは自分が何故そんな危険な事をしなければならないのかということです。私達もマタイ28:19で「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と主に命じれています。弟子とせよと言われても、私達は彼と同じような反応を示さないでしょうか。神を思わず、自分だけを見るからです。確かに、世の人々に主の証人として福音を伝え、人々が主イエスを信じて救われるよう助け、導くことは大変なことです。自分を見ると、気が遠くなるような話です。主イエスを信じてはいるけれど、相手に主イエスが救い主と判るように伝えることは自分には出来ない、自分にそんな資格はないと思ってしまうからです。それに、日本の98%の人は、イエスが主であるとも救い主とも信じていません。無神論者と言う人も多いのです。そんな人達に教えることも反論することも自分にはできないと尻込みしてしまいます。加えて、日本の宗教人口は日本の総人口を遙かに超えると言われ、他宗教の力は強いし、仏教的、神道的日常が人々の心に染み込んでいます。ドラマで食前に手を合わせていても、決して主イエスにではありません。対象は、自分が拝まなくてはと思う神や仏です。初詣を始め、神事、仏事には当たり前のように出向き、手を合わせます。だから、キリスト者であろうとすると様々な闘いに直面します。教会に行くなら家を出て行けと言われたり、神学校に行ったっら親戚中から白い目で見られる。行くならお前を殺すと言われた人もいました。モーセも、神が命じた事が命懸けの仕事になると判っていたから、神に反問したのです。

 それに対し、神は「わたしがあなたと共にいる。これが、あなたの為のしるし」と彼に言います。パウロも「誰が、私達をキリストの愛から私達を引き離すのか。苦難か苦悩か…危険か剣か」と言っています。主イエスも「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言っているではありませんか。主は、世の全ての人々を愛しています。その人々が救われる為に、私達の存在が、人生が必要なのです。だから私達を世の人々に遣わすのです。その後のモーセの言動を見ても明らかなように、彼がしたのではなく、神がしたのです。私達も同じです。福音宣教は神の業なのです。私達がどこにいても、どんな事をしても、主は私達と共にいて、御業を行うからです。そうするのが私達が信じ、私達を遣わす十字架と復活の主イエスなのです。主を信じましょう。主は十字架に掛かって死に、復活して共にいます。その主が「行け」と命じるのです。私達が主に遣わされて出て行くなら、主がご自分が共にいること、御業が行われていることを明らかにします。この主を仰ぎ見つつ人々に福音を伝えましょう。主の恵みと平安が私達と共にあります。