メッセージ(大谷孝志師)
捨てることに始まる信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年3月7日
ルカ18:18-27「捨てることに始まる信仰」 牧師 大谷 孝志

 昔、今は牧師をしている教会学校の生徒に「先生、説教を作るのにどれくらい時間が掛かるの」と聞かれた。「6ー8時間かな」と答えると「そんなに」と驚いたが、園長と牧師の二足の草鞋だったので、それが精一杯。その後、草鞋を一つにし、生活は厳しくなったが、牧師に専念でき、2ー3倍の時間を掛けている。御霊に導かれつつ準備し、主が示している御言葉に集中できるようになった。

 この指導者は「良い先生」と呼びかけた。「良い」は神の性質を表す言葉。彼は最高の敬意をもって質問した。「何をしたら永遠の命を受け継げるか」はユダヤ人が律法学者によく尋ねた事。主は、私を良い先生と言うのは間違いと言う。彼の言葉は社交辞令と見抜いたから。それでは真の対話にならない。私達も上辺だけ、習慣的にではなく、心から私の神、主なる神との思いで祈り求めることが大切。

 主はあなたは知っている筈だと、十戒の最後の貪欲を除く後半の五つの戒めを示す。しかしこれを守れば良いからではない。彼の反応を見る目的。主は私達にも御言葉を示すことで、私達の心の内を明らかにさせることがある。彼は「少年の頃からそれら全てを守ってきた」と言う。彼は正しい人であり、他のユダヤ人から見れば、永遠の命を受け継げる人だった。しかし、彼は自分が永遠の命を受け継げるか心配だった。聖書は、律法を正しく守ることは大切だが、正しく守っていると自分で判断していると不安になる、と教える。だから主は彼に、永遠の命を受け継ぐ者となるのに真に必要なことを教える。「まだ一つ、あなたに欠けているものが有る」と。彼だけでなく私にも言われている言葉として心に響いた。

 勿論、自分は完璧だと思っているキリスト者も牧師もいない。しかし自分なりに精一杯しているという自己満足、或いは、自分にはこれが精一杯、限界だという諦めを持っていないか、と聖書は私達に問い掛けている。主は彼に「持っている物を全て売り払い、貧しい人達に分けてやりなさい」と言う。これを主イエスが命じたことが重要。この譬え話の後に、主はご自分の死と復活の告知をした。聖書は自分を捨てる主イエスと自分の頼るものを捨て切れない指導者、そんな事をしなければならないなら、誰が救われるだろうかと驚く聴衆を対比している。

 聖書は私達に、自己中心的思い、自分の所有物に囚われていないかと問い掛けている。自分という殻、その中の所有物にしがみ付いて、死に向かうしかないこの世に留まっているのでなく、主が支配する新しい外の世界へと飛び立てば良いと。この新しい外の世界は、実はこの世の中にある。キリスト者は世の終わり迄、肉の命が終わる迄、この世で生き続けている。だから主は、必要だと思っていたものを神の国の為に捨てた者は、必ずこの世で、何倍も受けると言う。自分の為でなく、神の国の為に、自分のものを捨てることが条件。捨てて神との新しい正しい関係に生きるから、神がその人に必要なものを与える。永遠の命を受け継げる。しかし、彼も聴衆も、今の生活の延長線上で永遠の命を受け継ぐことを求めた。

 だから主イエスは、自分を捨てきれない人々の為に、自分の十字架を背負って歩み、死んだ。私達の為に自分を捨てた十字架の主を仰ぎ見よう。自分が頼りにするもの、生きる為になくてならぬものと思うものは、朽ち、壊れ、失われる。主はそれらを捨てよと言う。それらが私達の霊の目を塞ぎ、真に大切で必要なものを隠しているから。それらを捨てると霊の目が開き、自分を愛し、主イエスが自分と共にいると判る。「信仰は捨てることに始まる」と聖書は私達に教えている。