メッセージ(大谷孝志師)

変える為に来た主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年3月14日
聖書 ルカ19:1-10「変える為に来た主」  大谷孝志牧師

 「信仰とは驚きである」と言った人がいました。私も教会に行き始めた頃、様々な驚きを経験しました。クリスチャンは私のような人間に対して真剣に関わってきたからです。今までの友達関係の中で経験したことがなったからです。それに男性も女性もにこやかに接して来ました。何でこんな私の為に一生懸命になれるのか不思議でした。それ以上に驚いたのは、みんな色々な用事が有っても、それを置いて教会に来たのです。本当に一生懸命なのです。 今日の登場人物、ザアカイは取税人の頭で金持ちでした。彼はイエスという人が来るのを知って、どんな方かを見ようと思ったのです。イエスはユダヤでは有名人でした。彼の行動の真剣さ、必死さをを見るとそれだけではなかったようです。それが何だったかは、聖書に書かれていないので分かりません。しかし背が低かったので、群衆に遮られて、見られなかったと書かれています。それで彼は先の方に走って行き、そこでイエスを見ようと、いちじく桑の木に上りました。彼自身、自分がイエスに会うことに何故こんなに一生懸命なのかと。走り、木に登りながら、自分ながら驚いたのではと思います。

 私は受浸して暫くして五歳頃の写真にマリヤと黒板に書いてあるのを見て母に理由を聞来ました。すると、母がある女性宣教師の話を母と一緒に聞いていたんだよと教えてくれました。主が幼い頃から私を捕らえていたから、主を求め、救われたと知り驚きました。ザアカイも下を通りかかったイエスに自分の名を呼ばれただけでなく、イエスに「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている」と言われて非常に驚いたと思います。イエスが前から自分の名を知っていたからです。それ以上に彼が喜んだのは、あのイエスが、自分の家の客となってくれると言ったことです。彼は急いで降りて、イエスを自分の家に迎え入れました。しかし町の人々は「あの人は罪人の所に行って客となった」と文句を言います。当時、ローマ、つまり、異教徒の手先としてユダヤ人から税金を取り立てていた取税人は、神に背く者、罪人と見られていたからです。しかし、主イエスの見方は、彼自身とも人々とも違っていました。ザアカイの場合は、自分はいちじくの木に登ってしかイエスに会えない人間と思っていました。町の人々は、彼のことをイエスが客になるには相応しくない人間とみていました。しかし主イエスは、彼がご自分を必要とする者、彼の客となることが必要だと知っていた。

 私の場合は、私の友となることが必要と知っていた主が「私があなたの友だよ」と語り掛けてくれたのです。私は主イエスを信じ、救われました。私を変える為に主は語り掛けてくれました。主は今も変わる必要がある人々に「私があなたの友、私はあなたと共にいるよ」と語り掛けています。

 さて、イエスがザアカイの家の客となったのを見て、人々は皆文句を言いました。彼らは主が自分達の町に来たこと喜んでいた筈です。しかし、主が彼を特別扱いしたと知り、主への態度を一変させました。彼らは自分の殻の中から主を見ていたからです。しかし彼は、殻から出て主の前に立ちました。

 その時彼の霊の目が開かれました。以前の彼がこれを見たら、腰を抜かしたかも知れません。昔の彼は、金を得ることに汲々とし、財産が増えれば増えるほど幸せ度が増すと考えていました。しかし彼は主が会いに来て、自分の客となってくれた、自分の人生の中に入って来てくれたことで、大きく変わったのです。彼は自分の殻から出られたのです。周囲の人から白い目で見られ、金の亡者、金銭欲に取り憑かれている人と蔑まれていたのです。分かっていても金から自由になれない人でした。そしてどんなに辛くても金さえ有れば、自分の言うことを聞いてくれる人がいるので、寂しくないと、兼ねにしがみ付いている人でした。その彼、自分の家、自分の人生にイエスを迎え入れることで、財産から自由になり、財産を他人の為に使える人になったのです。自分を閉じ込めていた殻から出た彼は、今の自分、過去の自分を客観的に見詰め直すことできたのです。自分の力では怖くてできないことですが、主を迎え入れると、主が力を与え、導くので、できたのです。それだけではありません。彼は財産を殖やす為に他人から物や金脅かしてでも手に入れていたかも知れないと気付きます。自分の過ちを認めるのは勇気が要ることです。でも彼にそれができました。イエスを見たくて必死になっていた彼です。自分の悪いところ、正したいところがあると何となくでも気付いていた筈です。しようと思えばできたかも知れないが、できなかった。でも、主に会って変わった彼は、彼は自分が持っているものの意味と自分に出来る事を見出せたのです。間違いをしていたならその人に四倍にして返すと主に言います。

 主はその彼に「今日この家に救いが来た。この人もアブラハムの子だから」 と言いました。これは人々が、罪人、救われ、神の祝福を受ける資格がないと見ていた彼が、神の愛の対象だと主に認めたられたこと、彼が真に幸いな人になったことを意味します。主が彼を変える為に来てくれたからです。

 主イエスは全ての人を救い、彼にしたように、永遠の命を与え、幸いな者とする為に世に来たました。そしてザアカイの所に来たのです。主は神から遠く離れている人々を神の国に招き入れる為にその人の所に来ます。ザアカイの名を知っていたように、一人一人の名を呼んで呼びかけています。私も呼びかけられ、救われました。彼が自分の所に泊まる為に来た主を迎え入れたように、私を救う為に来た主を受け入れれば良いのです。主はあなたの過去を問題にしなません。あなたが大切なのです。あなたの客となってくれます。主がベツレヘムで生まれた時、宿屋には主がいる場所が有りませんでした。あなたの心の客間に主を迎え入れてください。そうすれば、あなたの人生を主が共に生きてくれるます。すると、自分だけの自分の為の人生から、主が共にいる主の為の人生に変わります。ザアカイは自分の為にでなく、他の人の為に生きる者なりました。もしあなたが、まだ主イエスが自分の人生を変えてくれること、主イエスを信じるなら救われ、恵みと平安が与えられと知らなければ、あなたを救う為に世に来て、あなたを変えて、主と共に生きる者とする為に、主があなたの所に来ていることに気付いて下さい。気付いたら、あなたを変え、幸いな人にする為に来た主を安心して迎え入れて下さい。