メッセージ(大谷孝志師)

主を乗せて歩む
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年3月21日
聖書 ルカ19:28-36「主を乗せて歩む」  大谷孝志牧師

 来週聖日はシュロの聖日と言い、主が十字架の死が待つエルサレムに入ったことを記念する日です。この日から受難週に入ります。主イエスはエルサレム近くの村に着いた時、二人の弟子をその村に遣わし、誰も乗ったことのない子ロバを連れてくるように命じました。主はそれに乗ってエルサレムに入りました。主が乗ったのは戦争に用いられる馬ではありあせんでした。子ロバでした。それは、主がこれから十字架の死によって成し遂げる平和は、軍馬や戦車によってではないことを人々に示す為でした。当時ユダヤは、圧倒的軍事力で地中海沿岸地域を征服したローマの属領で、シリア総督の支配下にありました。人々は宗教的、政治的に虐げられていました。その中でユダヤ人は神の民としての誇りを持ち、神が預言者を通して知らせていたダビデ王国の復興、その為に遣わされる救い主の到来を待ち望んでいました。中でも熱心党はその為には暴力的行動も辞さなかったのです。だからこそ、主は子ロバに乗ってエルサレムに入り、この世に神がもたらそうとしている平和は、人々が考え、求めているものとは違うことを示したのです。その真の平和を与える為に、主は世に来たからです。その新しい時が始まることを示す為に、主は誰も乗ったことのない子ロバに乗ってエルサレムに入りました。その神の国は、世の人々の想像を遙かに超えた新しい神の愛と恵みに満ちた世界、十字架と復活のイエス・キリストが主として全てを支配する世界です。

 それにしても、何故子ロバだったのでしょう。弱々しい子ロバに大の大人が乗れば、むしろ滑稽にすら見えたと思います。しかし、子ロバが主の重さに耐えかねて倒れたとは書かれていません。最後まで堂々と載せて歩んだのです。そうです。私達も子ロバで良いのです。自分は弱く、主を載せる資格はありません、主をお乗せできる程強くありませんと尻込みする必要はないのです。主に用いられる時、私達は相応しい者になれます。主が私達を必要とするからです。主が子ロバを選んだのは、主を載せるのは子ロバで良いからです。馬のような格好良さは必要ないし、力も必要ないと知りましょう。

 さて、当時のエルサレムは、荘厳華麗な神殿がそびえ立つ町でした。ユダヤ教の中心地ですから、熱心な宗教指導者が多くいた町です。しかし外側はそうでも。内側は主の十字架の死が必要な欲望が渦巻く町だったのです。私達の心はどうでしょう。主を信じ、主を礼拝していても、自己満足を求めるだけだったり、礼拝している自分の姿に誤魔化され、神から離れていながら気付けないとしたら、永遠の命を求め、自分達なりの努力をしてはいても、それが無駄な努力の積み重ねと気付かなかったこの町の人々と同じなのです。私達もパウロが言うように、空を打つような拳闘をしていないでしょうか。しかしそうであったとしても、いやそれだからこそ、主は私達に「私を乗せるロバになれ」と呼び掛けているのです。主は歩けない訳ではありません。主にとっては世の一人一人が大切な一人一人です。主のその愛を知り、主が何の為に十字架に掛かって死ぬのかを知らせる子ロバの私達が必要なのです。

 主は子ロバに乗ってエルサレムに来ることが必要だったからそうしたのです。主が世に来て、十字架に掛かって死んだのも、復活して弟子達に現れたのも理由は同じです。主が全ての人の主であり、救い主であることを人々が見て分かるようにする為です。主が復活後、二度目に弟子達に現れた時もそうです。主は自分が見て触らなければ信じてないと言ったトマスに、手の傷を見せ、脇腹に手を入れなさいと言いました。彼はその主イエスを見て、「私の主、私の神よ」答えました。すると主は彼に「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸い」と言いました。確かに見ないで信じられる人は幸いです。今ここにいるキリスト者は見ないで信じた筈です。求道中の方も見ないで信じることを求められています。それが神が私達に求める信仰なのです。確かに、人には見ないと信じなられい弱さがあります。でも、日常生活を振り返ってみて下さい。自分は見なくても目撃した人に「こういう事が起きたよ」と言われたら、事実だと信じるのではないでしょうか。相手の信用度により違いはありますが、目撃証言には大きな重みがあります。ですから神は御子である主を世に遣わし、全ての人を救うことを、主がした事、同じ人間である弟子達がした事の記録によって明らかに示したのです。

 主はロバの子に乗ってエルサレムに入り、主が武力によってではなく、十字架の死、愛の力によって人々を救うことを示しました。主は、この後、異邦人に引き渡され、彼らが嘲り、辱め、つばを掛けた後、鞭打ってから殺すと予言しました。そこには神の子としての尊厳は微塵もありません。だから人々はイエスを十字架に付けろと叫べたのです。主は、神の愛を、自分が十字架に付けて殺されることで現しました。しかし、誰もそこに神の愛を見ることができませんでした。弟子達も分かりません。だから主は復活した日の夕方、戸に鍵を掛けていた弟子達の所に来たのです。主には不可能な事は何もないと彼らに教える為です。そして彼らに平安を与えました。ご自分が誰で、何を与える方かを言動で示したのです。その後、主は見えなくなりました。私達は目で主を見ることはできません。だから主は、湖畔で三度目に彼らに現れたのです。目には見えないが主は常に全ての人と共にいること、人々が危機に立たされても、主は人々を包み、守り、平安を与え、助け導くと分からせる為に、主は彼らに現れ、共にいることを彼らに伝えさせたのです。

 主が二人の弟子に、自分をエルサレムに乗せて運ぶ子ロバを引いて来させたように、、私達の周囲の人にご自分が誰かを知らせる働き人を主は必要としています。私達には主をお乗せしてその人の所に運んで行く務めがあります。その為に私達は教会に招かれ、主と共に生きる素晴らしい恵みを与えられていると知りましょう。しかし私達がこの恵みを味わう前に、或る人が私達の所に主を運んで来たのではないでしょうか。その人に知恵と力が有ったからではありません。その人を主が用いたから私達は主イエスを信じ救われたのです。私達も只の人に過ぎません。でも、私がではなく、主がどんなに素晴らしい方かを、この私によって相手が知ることができるのです。そのままで良いのです。主が相手を救う為に、このままの私を必要としているからです。