メッセージ(大谷孝志師)
素直に相手を見るには
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年3月21日
ルカ6:39-42「素直に相手を見るには」 牧師 大谷 孝志

 相手に対する印象はなかなか変わらず、いつまでも残る。動物の赤ちゃんには生まれた直後に見たものを自分の親と認める「刷り込み」という現象がある。私達人間の場合も、それ程ではなくても、第一印象は強烈に残っている。それが人間関係にも出てしまう。好きだと思う人とは自然に話せるし、話す機会を持とうとする。しかし距離を感じている人とはつい話すことを避けてしまい易い。また、良い印象を持つ人と悪い印象を持つ人でも違う。悪い噂を聞いた時、良い印象の人の場合は「そんな事をする人ではない」と思うが、悪い印象の人だと「やっぱりそうだったか」と思ってしまう。どうしても受け取り方が違ってしまう。それに、一生懸命に良い印象を持ってもらおうと頑張ってみても、ちょっとしたミスで、やっぱりあの人は駄目だと陰で言われていると聞くととても寂しいものが。

 このような事が起きる人間関係の背景には、人は他人に対して本能的に不信感を持ってしまうことがある。信じられない人がいるとその人を排除し、安心できる人達と少しでも一緒にいたいと思う。でもそのような不信感が大きな影響を与える人間関係では、結局の所、どんなに努力しても寂しさから抜け出せない。主は私達のその現実を知り「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教える。主の愛を知り、主の愛で他人を見ようとすると私達の人間関係が変わり、愛で満ちたものになり、相手を素直に見られるようになる。

 しかし相手を素直に見られない原因は、第一印象や不信感に縛られる以外にもある。それはここで主が言うように、相手の目の塵は見えても、自分の目に梁があるのを認めないこと。良い印象を持つ人と悪い印象を持つ人では同じ事をしても違った見方をしてしまうように、自分のミスと相手のミスでは感じ方が違う。どうしても自分のミスを棚に上げ、相手のミスを責めてしまう。主は何故自分の目にあるものを梁に譬えたのか。梁がなければ相手の現実の姿を見られるが、あればそれが見えないから。他人が見えないから、自分が他人からどう見られているかも知ることができない。だから自分の思いで相手も自分も決め付けてしまう。それが人が誰もが持つ罪だと主は教えている。

 相手を素直に見るにはどうしたら良いのか。それには自分の目に梁があるのを認め「主よ、私は罪の中にいるので、自分も相手も正しく見られません。できるように下さい」と祈りつつ相手と関わっていくこと。勿論、相手の過ちや足りないところを指摘し、忠告したり、教えることは良いこと、必要なこと。でも自分が罪人であるとの自覚を持ち、「主よ、はっきり見えるようにして下さい」という砕かれた思いで、自分と相手の為の祈りの後、それをすべきだと私は教えられた。

 私達にはそれができる。主はそのような人間関係を可能にする為に、十字架に掛かって死に、復活して私達と共にいるから。そして時には私達を抱きかかえて歩いてくれている。その主と自分を素直に見詰める時、相手を素直に見られる。

 主はその大切さを「良きサマリヤ人の譬」でも教えている。彼は相手の過去、自分との関係、自分の状況や予定を見ず、相手に何が必要で、自分に何ができるかを見た。主はこの譬え話の最後に「誰がその人の隣り人になったと思うか」と言う。相手を素直に見るとは相手の隣り人になること教えられる。この教会が主に喜ばれる教会、地の塩、世の光の教会となる為に、互いに隣り人となり、素直に相手を見る人々の群れとなるよう掛けよう。それを主が私達に望んでいるから。