メッセージ(大谷孝志師)

十字架の主と共に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年3月28日
聖書 ルカ22:39-46「十字架の主と共に」  大谷孝志牧師

 今日からの一週間を教会では受難週と呼びます。今日は棕櫚の聖日です。主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入った時、群衆が棕櫚の枝を道に敷いて歓迎したことからこう呼ばれます。しかし今日は十字架の死を目前にした主イエスの姿を通して、主は何の為に十字架に掛けて殺されたのか、主の十字架の死によって全ての人の為に救いの道が開かれたが、主に救われた私達はどのように生きたら良いかを、今日与えられた御言葉を通して学びます。

 21:37を見ると、主はエルサレムに子ロバに乗って入った後、主は昼は宮で教え、夜は外に出て、オリーブという山で過ごしたとあります。そして木曜の夜、最後の晩餐を終えた後、主はいつものようにオリーブ山に来て、いつもの祈りの場に来ました。マルコによると、弟子達の中からペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、少し離れたところで祈り始めました。主は彼らに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言った後、彼らから離れて、石を投げて届く程の所に行って祈ったのです。いつもと違ったのは、主は捕らえられ、十字架で殺される時が迫っているのを知っていたからです。主はここに来る前に、主が十字架に掛かって死んだ時、弟子達が信仰の危機に立たされると知り、ペテロに「あなたのために。あなたの信仰が無くならないように祈った」と前もって言いました。しかし彼はそう言われて、「あなたとご一緒なら、死であろうと覚悟はできている」と言い切ったのでした。

 しかし何故、彼らはそのような信仰の危機に立たされるのでしょう。主の十字架の死と復活は、全ての人が罪の力から解放され、神の子とされ、神の国に生きる者になり、救われる為です。弟子達はその為に、主イエスを信じるなら救われるとの福音を伝える使命を与えられ、それを果たしていきます。しかしその働きは、人々が神に立ち帰ることを阻もうとする悪の力との闘いなのです。聖書を読むと、彼らが福音を伝える時、主は共にいて助け導きました。しかし福音を伝える相手は人間です。ですから人々が分かるように、自分の言葉で語り、自分の生き方で福音の良さ、確かさを伝えなければならないのです。自分がさらけ出されます。そこに悪に誘惑される隙が生じるのです。しかし大丈夫です。主はそれを知ってペテロの為に祈ったように、この私達の為にも祈っているからです。その為に主が十字架に掛かって死に、復活しているのです。主が万物の主として世を支配する新しい時が始まっています。だから、私達が福音を伝えるなら、主が助け導いてくれます。

 しかし主が「祈っていなさい」と言ったのは何故でしょう。これは私達への言葉でもあります。私達の心が主に真っ直ぐに向かっているなら、主は祈りを聞き、与えるからです。悪は福音宣教を阻止しようと誘惑してきます。だから主は「誘惑に陥らないように祈れ」と言います。これが誘惑に勝つ最上の方策だからです。福音を伝えようとすると様々な誘惑に遭います。でも相手や自分だけを見ずに、主に祈り求めましょう。勝てます。私達を遣わし、私達に実を結ばせる為に、主は十字架に掛かって死に復活しているからです。

 主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り去ってください」と祈ります。全てを知る方です。自分がこの後、十字架に掛けて殺されるが、それが父の御心と知っています。福音書には、主がこれまでも父である神に祈り求め、神がその祈りに応えてきたことが記されています。それでも、主はこの杯を私から取り去ってと神に願ったのです。この杯は十字架による死です。マタイとマルコには死直前の主の悲痛な叫び、断末魔の叫びが記されています。主はただ詩篇22編の冒頭の言葉を口にしたのではありません。この死が自分が罪人として神に関係を断絶されることを意味する死だからです。

 しかし主の十字架上での叫びは、死直前の死を恐れての叫びではありません。自分の死が意味するものが何かを私達に伝える主の叫びなのです。ここで主は、先ず「御心なら」と言い、「私の願いではなく、御心がなりますように」と祈っています。自分は殺されようとしています。これが御心だから、避けることは絶対できないと主は知っていました。それなのに何故取り去って欲しいと主は祈ったのでしょう。それは人がその罪の故に滅ぼされることの恐ろしさを知るからです。御子だから知り、知っているから恐れたのです。神が人を創造したのは、永遠に自分と共に生きる者とする為です。しかし、人は罪を犯し、神に背き、滅ぶべき者となっています。しかし神は人を愛しています。神との関係を回復させ、永遠に生きる者にしようとしているのです。その為には、神が愛する全ての人の代わりに、主自身が神に滅ぼされ、死ななければならないのです。神が神である為に御子が通らなければならない道です。御子でなければ担えない十字架であり、人となって世に来た御子だから担える十字架です。ですから、主はこの杯を受けるしかないのです。

 主は一人の人として御前にいます。人として神に裁かれようとしています。だから神は御使いを送り、イエスを力付けました。それ程主が悶え苦しんでいるからです。神が力付けてもイエスが十字架の死を遂げることに変わりはありません。主は苦しみ悶えて、いよいよ切に祈り、汗が血の滴のように地に落ちました。血涙ではありません。それだけ必死に祈らざるを得なかった程の苦しみだったからです。私達はこの主の苦しみを他人事と見ていなでしょうか。ここに自分の罪を、神に滅ぼされるしかない自分を見、その為に苦しむ主を心に刻む必要があるから、この事実を聖書は私達に伝えています。

 弟子達はと言うと、主が彼らの所に来ると、悲しみの果てに寝入っていました。主の苦しみを感じ、悲しんでいたでしょう。しかし眠気に負けたのです。人は分かっていてもできない弱さを誰もが持っています。だから主は「起きて祈っていなさい」と言います。霊的に目覚め、主との交わりを保つ、それが誘惑に陥り、心が神から離れない為の最善の方法なのです。この受難週、霊的に目覚めて祈り、神との交わりを大切にしましょう、ゲッセマネでの主の祈りを心に刻み、主のように私の願いでなく、御心が行われるように祈りましょう。主は今も十字架上での叫びをもって私達に呼び掛けています。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさいと」と。主と共に十字架を負いつつ歩んで行きましょう。