メッセージ(大谷孝志師)
闇の世界を包む光
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年3月28日
ヨハネ3:16-21「闇の世界を包む光」 牧師 大谷 孝志

 主イエスが十字架の死を遂げ、復活した。それは神が御子を世に与えたから。主は全ての人を照らす真の光として世に来た。弟子達は自分達と共に生きるその方の栄光を見た。父の御許から来たひとり子としての栄光。主イエスは恵みとまことに満ちた方。しかし、福音書を通して知る弟子達は、その栄光を見た人達とはとても思えない。主に、まだ分からないのか、信仰薄い者よとも言われた。主の言動を見ていた彼らは、自分の全てを捨てても従いたいと思う時もあったが、ペテロはサタンと呼ばれ。そして最後は、恐怖から皆、主を見捨てて逃げ去った。

 私達は弟子達と比べてどうか。私達も主が共にいる。主を信じていなければ自分の人生はどうにもならなかったかも知れない、と思っている。それに、主が自分に与えたとしか思えない多くの恵みを知る。それが事実だと他の人には言えないが、それにより自分が変えられ、平安を与えられている。そして、このよぅな自分をも主が愛し、支えていると感謝している。それは主イエスが世を裁く為ではなく、世が救われる為に遣わされたから。私達は主の前に胸を張って出られるような者ではない。主の裁きに耐えられるような者ではない。しかし今私達は主の豊かな恵みを味わっている。罪人であるにもかかわらず、裁かれないから。

 しかし聖書は「信じない者は既に裁かれている」と言う。私達の周囲には「神のひとり子の名を信じなかった」多くの人々がいる。聖書はその人々は「既に裁かれている」と言う。神は世の人々が罪を犯し、神を神として崇めないので、世の人々を滅ばさざるを得ない。しかし、神が人を造ったのは滅ぼす為ではなく、神と共に永遠に生きる者とする為。だから、神は御子を世に遣わし、御子を信じる者は滅びず、永遠の命を持つ者とした。しかしかつての私達がそうだったように、真の救い主が世に来ているのに、人々は主イエスを信じようとしない。その時、私達は幸いだったか。今より幸いではないが、自分なりに幸いだと思っていた。これで良いと思っていた。光よりも闇を愛しているのに、それに気付かなかった。

 それに自分より人を大切にするのは自分には無理だと考えた。そういう善意の塊のような人はいる。自分もできたら良いなとは思うが、自分に出来ない事をする人を快く思わなくなってしまう。そして、そんな自分の心の内を人に知られることを恐れる。他の人に自分はいい人だと思われたい。恥ずかしい人間と思われたくない。「光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」。だから教会に来て、主イエスを信じようなどとは決して考えない。

 しかし、1:4-5に「この方(御子イエス・キリスト)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに勝たなかった。」とある。だから今、私達は主を信じ、救われ、主を礼拝している。ある時、自分が生きている世界が闇の世界と知り、この闇の中に光が輝いているのを知った。闇の中にいる自分を真の光である主イエスが照らしていると知った。今も主は闇の世界に生きる人々、光が輝いているのに気付けない世の人々を照らし続けている。

 「真理を行う者は、その行いが神にあって為されたらことが明らかになるように、光の方に来る」と聖書は教える。私達が主にあって正しいと思う事をすれば、神がそれを助け、実を結ぶようにする。主を信じ、主に繋がっているなら、私達は実を結べると15:5で主は言う。そうする為に主は世に来て、十字架に掛かって死んで復活し、闇の中の私達を照らしている。主の光に包まれ、主と共に歩もう。