メッセージ(大谷孝志師)

新しい時が始まった
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年4月4日
聖書 ルカ24:1-12「新しい時が始まった」  大谷孝志牧師

 金曜には、主イエスが十字架に掛けられて殺されことを覚えつつ、受苦日礼拝を守りました。今日は主の復活を感謝し、共に祝うイースター礼拝を皆様と一緒に守っています。感謝です。主イエスが十字架上で息を引き取り、埋葬されたのは安息日の直前でした。ユダヤでは金曜の日没から安息日になります。ユダヤ人は、安息日は生きる為に必要な事以外はしてはいけないと定めた律法を厳しく守っていました。ですからガリラヤからイエスに従って来た女性達は、安息日が開けたら、主の為に正式な埋葬をしたい、少しでも早く主の遺体に香料を塗りたいと思い、彼女達は日曜の朝早く、安息日が終わったのを確認し、香料を持って、主の遺体を納めた墓に向かったのです。

 復活の日の記事は全ての福音書にあります。でも、それぞれ違いがあります。マタイでは、墓に行ったのはマグダラのマリアともう一人のマリアです。でもマルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメです。ルカになると、マグダラのマリアとヨハンナ、ヤコブの母マリアと他の女達と大勢です。しかし、ヨハネでは、マグダラのマリアだけになります。

 女性が墓に来ると、マタイでは大地震が起きた後、主の使いが天から降りて来て、墓の入り口の石を脇に転がし、その上に座りました。マルコでは女性達が墓に着くと石は転がしてありました。墓に入ると御使いがいるのが見え、非常に驚いたとあります。ルカでは御使いは二人で、後は同じです。ヨハネではマグダラのマリアが墓に来ると。やはり石が取り除けられていました。

 全ての福音書とも、墓に主の遺体が無かったと記しています。マタイ、マルコ、ルカは女性達は墓で御使いから主はここにいないと告げられ、弟子達への伝言を託されました。マタイでは、女性達は御使いに会い、恐ろしかったが喜んで弟子達に伝言を伝えようと走って行った時、主が目の前に現れました。マルコでは、女性達は御使いに伝言を託されたのですが、震え上がって動転してしまい、逃げ去り、誰にも言いませんでした。でもその後、主がマグダラのマリアに会ったと記しています。ヨハネにはマグダラのマリアに現れた時のことが詳しく書かれています。このように福音書に書かれた主イエス復活の記事はそれぞれ違っています。しかし聖書を編纂した初代教会の人々は、違いが有るまま聖書としたのです。聖書は全て神の霊感によって書かれたものと信じ、受け入れたからです。聖書を読む私達は、それを御心と受け入れれば良いのです。主が十字架に掛かって死んだ事、主が復活した事は間違いない真実です。しかし、情報伝達が今とは全く違う当時。人々は伝え聞いた事を真実として受け止めて記し、それを教会が聖書と認め、神がそれを許したのです。他にも内容が同じで表現が違う記事が数多くあります。私達は、体験した人の受け止め方の違いを通し、その記事で主が人々に何を伝えさせようとしたのか、キリスト者の自分に主が何を求めるかを知りましょう。そして、自分が今なすべき事が何かを新しく知った人として、自分を喜ばせるのでなく、主に喜んで貰える人となって生きようではありませんか。
 主が十字架に掛かって死に、三日目に復活した記事に、違いがあったと言いました。でも、復活した主が、墓の中にいなかったこと、それを確認したのが女性だったこと、その事実を聞いた弟子達が信じなかったことは共通していました。しかしそれとは別に共通している非常に重要なことがあります。それは、主が弟子に選んだ12人、補充された使徒、使徒6:3-の御霊と知恵に満ちた評判の良い7人、パウロ、アポロ、バルナバ、テモテ、テトスも全て男性だということです。女性は数人が手紙の末尾に紹介されているだけです。しかし、主の復活を知らされ、伝える使命を最初に与えられたのが全て女性ということは、福音を伝え、主の証人となるのは男性である必要はないと聖書を通して主は私達に教えていると言えるのではないでしょうか。

 「週の初めの日の明け方早く」なのは、彼女達が少しでも早く、主の遺体に香料を塗り、死臭を抑えようとしたからです。神は、主イエスの為に自分に出来ることがあればしたいとの思いを用いて、主の復活の証人の務めを与えたのです。「石が転がされていた」のは、彼女達が石を取り除けなければ墓には入れないのが分かりながら来たが、神が入れるように既にしていたからです。自分達にはできないかも知れないと思っても、してみれば良いのです。主は道を開くので、できると神は教えています。墓に入った彼女達は主の体が見当たらないので途方に暮れました。福音を伝えようと思い、努力しても、障碍に突き当たることもあれば、主が本当に一緒にいるのか、自分は真実を伝えよとしているのかと疑念を持ってしまうこともあります。御使いは言ました。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい」と。聖書を読んで心に蓄えている御言葉を思い出せば良いのです。そこに真実が示されているからです。「主イエスは甦り、生きているので、ここにはいないのに、どうして生きている方を死人の中に捜すのか」と御使いは言います。私達も同じ事をして真実から目を背けて、自分の心の中で堂々巡りをしてしまうことがあります。気を付けましょう。更に御使いは「人の子は必ず罪人達の手に引き渡され、十字架に付けられ、三日目に甦ると言われたでしょう」と言います。主の十字架と復活を信じる信仰に立てば良いのです。主の言葉を思い出した彼女達の行動は、その信仰に立ったことを示します。彼女達は墓から帰り、使徒達に全て報告します。主が復活した事、光り輝く衣を来た御使いが告げた事を聞いた使徒達はこの話を戯言のように思い、信じませんでした。しかしペテロは事実を確認しようと墓に行きます。でも、中に遺体を捲いていた亜麻布を見て、驚きながら帰っただけでした。十字架に死んだイエスが復活して今も生きていると信じるのはとても難しい事です。

 私達は、主が死んだが復活したと信じます。その事を知らされたからです。でも直ぐには信じられませんでした。それを知った時、主が生きていなければ起きない心の変化が起きます。でも確信は持てず、かも知れないに留まったでしょう。でも女性達は復活の主に会い、主が生きていると知りました。それは私達が見ないで信じる者のとなる為です。霊的に主と出会い、信じると真実になります。信じると自分が変わり、人生が喜びに満ちていきます。