メッセージ(大谷孝志師)

礼拝は主に出会う時
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年4月11日
聖書 ルカ24:13-31「礼拝は主に出会う時」  大谷孝志牧師

 先週私達は、多くの方々と共に主イエスの復活を感謝し祝う礼拝を守ることができました。感謝です。復活した主は今ここに私達と共にいます。しかし頭で分かっていても、主が共にいることを意識せずに何かをしたことはないでしょうか。私は正直言って、それを意識しないでした方が多かったです。説教準備でも、祈りつつ聖書や注解書を読むより、自分が感じた事を書いていました。ある時、お前は私に教えられながら原稿を書いているのだ、それに気付いていなかった、と主に気付かされました。それ以後、心から説教を語れるようになりました。人生は一生勉強と言いますが、正にその通りです。

 「この日」とありますが、主が復活した日です。「これらの出来事」は、主の十字架の死と復活です。「二人の弟子」は十二弟子以外の主の弟子です。彼らはエルサレムからエマオに向かっていました。主が復活しているのに、失意のまま故郷に帰ろうとしていたのです。そこに主が近付き一緒に歩き始めました。二人は誰かが一緒に歩き始めたのは分かりました。でもそれが主と分かりませんでした。彼らの目が神に遮られていたからです。神は、何故主イエスが一緒に歩いているのに、それが分からないようにしたのでしょう。主が前もってご自分の死と復活を彼らに告げていたのに、彼らが理解できずにいたから、主の十字架の死に失望し、主が復活したと女性達から聞いても信じられなかったからです。自分達が霊的に盲目のままでいたからです。
 彼らは主が「神と全ての民の前で力ある預言者」と認めていました。また、「この方こそイスラエルを解放する方と望みをかけていたのです」。主を信じ、全てを捨てて主に従っていました。しかし主は捕らえられ、十字架に付けられて死んでしまったのです。彼らは自分達の期待が裏切られたと思い、自分達の村に帰る途中でした。聖書は私達に、信仰と期待を混同してはいけないと彼らの姿を通して教えています。信仰は人生を確かなものにするけれど、期待は裏切ることがあるからです。信仰は神に結び付いているものです。しかし、期待は自分の心の中に持つもので、他人との関わりの中にあるので、自分の思い通りにはなりません。期待通りにならないと、人は挫折し失望します。大切なのは信じることなのです。真実を告げられても信じなかった彼らは、自分達が空しい論議をしているのに気付けませんでした。これを他人事にしていてはいけません。主は私達とも共にいて私達の話を聞いているからです。主が彼らに語り掛け、何を聞き、何を知っているかを確認させたように、主は今も、私達が教会の交わりの中で話したり、議論したりするのを聞いています。聖書や説教、証により真理を聞かせている私達に、あなたがたは何を話しているのかと尋ねています。自分の経験、心の声や人の言動に惑わされ、自分の殻の中で物事を判断している私達が真理を知ることが出来るように、関わってきています。だから「見えるものにではなく、見えないものに目を留め」ましょう。心を静めて主の臨在を感じましょう。声は聞こえなくても、主の御声が私達の心に響き、私達に真理を悟らせるからです。

 クレオパ達が主の十字架の死と復活について論じ合っていたのには理由がありました。彼らは、主が復活したと聞いたのではないからです。主の遺体に香料を塗りに行った女性達から、墓に行くと遺体が見つからなかったと、そして、御使いが主が生きていると告げたと聞かされただけだったのです。私達は主イエスを信じていますが、復活の主に会った人から聞いて信じたのではありません。主が共にいると霊的に知り、主の復活を信じた人から聞いたのです。私達の中には、そうかもしれないと思った人、事実なら自分も信じたいと思った人もいれば、とても信じられないと思った人もいるでしょう。しかし今、主を礼拝しているのは、ある時、主が共にいると信じたから、或いは、主が復活して私と共にいると信じたいと思えるようになったからです。
 二人の弟子は、主イエスが復活したかも知れないとの報告だったから信じられなかったと言えます。しかし、それを聞いた主は彼らを叱りました。女性達の報告を信じなかったからではありません。神が預言者を通して知らせていた事、つまり聖書に書かれている事を、彼らが信じられないと言ったのと同じ事だからです。だから叱りました。私達も教会に来て、イエスは主で、救い主と聞かされました。でも最初は信じられなかった筈です。でも今は、信じている人も、信じられたら信じたいと思っている人もいると思います。

 何故私達は変わったのでしょう。主が働き掛けたのです。御霊がイエスは主キリストで、十字架に掛かって死んだが復活して、今も生きて働いていると知らせたからです。でもその声が直接私達の心に響いたのではないでしょう。主イエスが二人に、自分について聖書全体に書いてあることを解き明かしたように、御霊が、聖書に書かれてる真理を私達に解き明かしたからです。私達は教会来て、聖書に触れ、礼拝で説教を聴き、主イエスを信じて生きている人々との交わりの中で、色々な話を聞きました。そして聖書に書かれている事は事実かも知れないと考えるようになったのです。不思議な事ですが、御霊が働き、聖書に書かれている事、教会の人々が信じている事が真実だと悟らせたからです。求道中の方には、真実かどうか知りたいと求める心を起こさせたからです。主イエスが復活して共にいると分かった彼らが「私達に聖書を解き明かしてくださる間、私達の心は内で燃えたではないか」と言ったように、主が生きて働き掛けたのです。しかし彼らが道々聞いていた時は分からず、後でその事が分かったように、まだ自分の知識、経験から判断するしかない時は、主が自分と一緒にいると実感できないのが人間なのです。

 では、彼らはいつ主が共にいると分かったのでしょう。それは主がパンを裂いて渡した時でした。私達も毎月聖餐式を行い、細かく分けたパンを頂きます。しかし二人が体験した事は、聖餐式だけでなく礼拝を指しています。復活し共にいる主との出会いは、主を礼拝する時に起きるからです。礼拝は恵みと奇跡の時です。ですから主は私達を教会での礼拝に、或いは家で一人静かに主との交わりの時を持つよう招いています。癒し主助け主、救い主である主イエスとの霊的出会いを経験し、彼らのように心が内に燃える者となる為、地の塩、世の光として私達を用いる為です。主の招きに応えましょう。