メッセージ(大谷孝志師)
必要が満たされる為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年4月11日
ヨハネ2:1-10「必要が満たされる為に」 牧師 大谷 孝志

 私達は今主イエスを礼拝している。福音書にはイエスの不思議な業が数多く記されている。人の心を見抜き、病を癒し、悪霊を追い出し、湖の上を歩く。また、慈愛に満ち、人の知恵では思いも付かないような教えを語った。人々は心満たされ、正しい道へと導かれた。主は今も、主に求める人々の必要も満たしている。

 さて、ガリラヤのカナで婚礼があり、主の母マリアは恐らく親戚の一人として宴会の世話役の補助役をしていたと思われる。イエスと弟子達も招かれていた。当時の婚礼は一週間ぶっ続けで行われることもあったよう。ぶどう酒の飲み具合が良かったのか、これくらいあればと用意したぶどう酒がしておいた底をついた。

 母マリアがイエスに「ぶどう酒がありません」と言った。イエスと弟子達が酒を飲み過ぎたので、責任をとって欲しいと言いに来たのではないと思う。マリアは主イエスを最も身近に見ていた。だから、イエスが必要を満たす方と信じていたから来た。しかしぶどう酒を与えてと頼んではいない。ただ事実を告げただけ。それだけで良い。主に自分が直面している悩み、問題を伝えることが重要だから。

 必要が満たされる為には、先ず、自分に何が必要かを主に告げることが必要。祈り、主イエスを自分の話し合い手として意識することが大切と教えられる。主は「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と突き放すように断った。彼女が主というより、我が子と見てしまったから。私達も自分の心の中に友達のような主イエスを作り上げて、それと対話するだけで、祈ったような気になってしまっていることはないか。必要が満たされるには、イエスを徹底して主と仰ぐ自分を意識することが必要。ひれ伏し、仰ぎ敬う心を持って、主に祈り求めよう。
 さてイエスは「わたしの時は未だ来ていません」と言う。イエスも時を待たねばならなかったのは何故でしょう。主が人として十字架に掛かって死ぬ為に世に来たからです。主イエスですら、父なる神が人の必要を満たす時を待っているのです。私達も必要を満たす様々なものを祈り求めています。しかし必要が満たされる為には、神がそうする迄、待つことが必要です。神は私達に必要な信仰訓練の時を与えるからです。神は必要な時に必要なものを必ず与えると信じましょう。

 マリアは給仕の者達に「あの方が言われることは、何でもして下さい」と言う。マリアとイエス、マリアを通して給仕達とイエスの信頼関係がある。必要が満たされる為には主にあって信頼し、助け合う信頼関係が必要と教えられる。主に「水瓶を水を一杯にしなさい」と言われた彼らはその通りにした。私の必要が満たされる為には兄姉の主への従順が欠かせないと聖書は教える。見える所、見えない所での兄姉の協力奉仕、そして祈りがあったから私の必要が満たされたと知ろう。

 イエスに水瓶を一杯にせよと言われても彼らには意味が分からなかったと思う。でも彼らは黙々と水を入れ続けた。蛇口から水が出る今とは違う。大変な重労働だった。訳の分からない事だが、マリアに頼まれ、イエスが命じたからやり遂げ、多くの人が喜びで満たされ、彼女の願いが実現した。私達は一人で生きているのではない。多くの人と共に生きている。助け合い、支え合いながら。しかし私と相手と共に主が共に居ると知ろう。私達はただ生きているのではない。この地に御心が行われる為に互いに生かされている。生きる為に私達は様々なものが必要。主はその為に私と相手を用いる。主と共に、主の為に共に生きよう。互いに助け、支え合い、互いの必要が主に満たされる為に、相手は与えられているのだから。