メッセージ(大谷孝志師)

信じる者となる為に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年4月18日
聖書 ヨハネ20:19-29「信じる者となる為に」  大谷孝志牧師

 その日とは主イエス・キリストが復活した日です。この日の夕方、イスカリオテのユダを除く11人弟子が、ユダヤ人を恐れ、鍵を掛けて閉じ籠もっていた家に主イエスが来ました。主は不安と恐れの中にいた弟子達に先ず「平安があなたがたにあるように」と言いました。弟子達はユダヤ人を恐れていました。ユダヤ人はイエスを犯罪人としてローマ人の手を借りて十字架で殺したからです。イエスに付き従っていた自分達も捕らえられ、処刑されることを恐れたのです。先週の聖書に記されていたように、彼らは全てを捨ててイエスと行動を共にしていました。イエスは神に遣わされ、行いにも言葉にも力ある方だと実感していました。それだけでなく、ペテロとヤコブとヨハネは山上での変貌を目撃し、神の愛する御子と知るという驚くべき光景を目撃しています。しかし彼らにとって、それは山を降りると夢幻のようなものだったのです。彼らは他にも素晴らしい奇跡を見、教えを聞きました。でも未だ、自分の知識と経験で主のことを判断するしかなかったのです。ですから、主が死と復活を予言しても、理解できないだけでなく、その意味を尋ねるのも恐れていました。そして、主イエスがゲッセマネで捕らえれると見捨てて逃げ去ったのです。ペテロに至っては、主との関係を三度も否認しました。そして主は十字架に掛かって殺されました。彼らが、主が殺されたので自分達も殺されると恐れ、戸に鍵を掛けて家に閉じ籠ったのは当然だと言えます。しかし18節を見ますと、弟子達はマグダラのマリアから「私は主を見ました」と聞き、主の自分達への伝言を聞いているのです。にも拘わらず、彼らは恐れに囚われていたのです。人は、自分の知識と経験を超えた出来事は信じられないという事実を、聖書は私達に教えています。主は私達に信仰を求めているのです。「主は十字架に掛かって死んだけれど、復活して今私達がいる所に共にいる」。これは現実で、真実です。しかし人は確認しようと思っても確認できません。信じるしかないことです。しかし信じるなら、神の国に生き、神から恵みと平安を戴くので、安心し喜んで日々を生きられます。

 ですから、弟子達が信じる者となる為に、主は彼らがいる家に入り、彼らの真ん中に立ち、自分達がどんな世に生きているかを知らせたのです。戸に鍵が掛かった家にすっと入ることは人にはできません。でも神には出来ます。神は何でもできると主自身が言っています。彼らの真ん中に立った主は、死んだが復活した私がここにいると、確かに分からせ、心に平安を取り戻させる為に、彼らに手と脇腹の傷を見せました。しかし、主が彼らに姿を示したのは、彼らに平安を与える為だけではありません。彼らに自分達には生きる意味と使命があることを教える為です。人とって、自分には生きる意味と目的があると知ること以上に素晴らしいことはないと私は思っています。主は、「わたしもあなたがたを遣わす」と言いました。直前まで打ちひしがれていた彼らです。しかし今、喜びに溢れ、生き生きとしています。私達も主が私達を必要としていると知りましょう。私達にも生きる意味と目的があります。

 弟子達は復活した主イエスに会い、喜びました。しかしその八日後、再び主が彼らの所に来ました。彼らが前回と同様、戸に鍵を掛けた家の中にいるからです。同じ様に主は入って来て、彼らに「平安があなたがたにあるように」と言いました。最初はユダヤ人を恐れていた彼ら、次は福音を伝える働きの為に世に遣わされ、困難に直面する彼らにでした。今回は、主が復活したと分かっても恐怖に囚われている彼らにです。ぬるま湯に浸かったままでいられる弟子達なら、主が「平安があなたがたにあるように」と言う必要ははなかったでしょう。しかし、彼らは十字架に掛かって死んだ主イエスに遣わされて、ローマ8:35に記された様々な苦難や危険が待ち受ける世に出て行くのです。自分を捨て、自分の十字架を負って、正に命懸けで伝道して行くのです。主に遣わされている、主が共にいると分かっていても、人間である故に恐怖に囚われると主は知っています。だから彼らに平安を与えたのです。

 もう一つ理由がありました。最初に主が来た時に居なかったトマスが、手に釘の跡を見、脇腹に手を入れてみなければ決して信じないと言ったからです。主イエスは全ての人がご自分を信じて、救われる為に十字架に掛かって死んだのです。しかし主は、人が世の知恵や知識、常識を越えた事は信じられないと知っています。しかし先程言いましたように、神は、人がこれは神の御業だと信じることを人に求めるのです。自分の知恵や経験により得た知識、言うならば、これ迄の自分に頼る生き方を捨て、ただ神に頼り、神が支配する世界に飛び込み、生きることを求めるのです。信仰を求めるからです。

 主イエスの十字架の死はただの死でも、敗北者の死でもありません。全ての人の罪を赦し、神の子とする為の贖いの死です。この世は神が支配する世界です。しかし人は神を神として崇めず、自分を主として生きています。それは神に背を向けていることで、神の祝福を求めないことになります。それだけでなく、神はその人々には永遠の命を与えず、滅びるに任せます。しかし人はその事の重大さに気付いていません。神は人が気付く気付かないに関係なく、罪は罪、神は人の肉体と魂の滅びによって罪を償わなうことを求めます。しかし神は、人を神と共に、神の世界に生きる者として創造しました。ですから人が滅びることは御心ではありません。それで神は、御子イエスの十字架の死と復活によって人の罪を赦し、救い、永遠に神と共に生きる道を開いたのです。ですから、人は主イエスを信じるなら救われます。しかし、信じるとは簡単なようで難しいことです。知らされた目で確認できない事を事実と認めること、その事を起こし、行った存在を信頼することだからです。

 それが人にはとても難しい事だから、主はトマスに現れ、復活の姿を示し、私を復活させた神を信じよと言ったのです。この主の顕現は、後にこの事実を知らされた人が、これを神がしたと見ないで信じる者になる為なのです。人が見ないで信じる者になるなら、人は見えない神が支配する世界、神の国に生きています。そこで人は、自分が神の恵みと愛と平和が満ちる世界。希望が失望に終わらない世界に生きていると分かります。人がその事を信じる者となる為に、主が十字架に死に復活したのです。信じる者になりましょう。