メッセージ(大谷孝志師)
言葉にならない祈りをも
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年4月18日
ローマ8:26-30「言葉にならない祈りをも」 牧師 大谷 孝志

 私はこれまで多くのの方々にバプテスマを施してきた。その方々の準備会を思い浮かべると顔や人格が違うように、信じるに至った経過は各人様々だった。中には、バプテスマを授けるのは少し早かったのではと言われたこともある。それはその人の信仰生活を見ての結果論。逆に言えば、その時を逸したら、その人は救われなかったと言えるから。一人の人が救われるのはとても大きな事。私は何ものにも代え難いことと思う。バプテスマを受ける決心は、自分の意思でできるものでは無い。主がその人にとって最も相応しい時に与えるものだから。救われるとは素晴らしい事。だから私達は一人でも多くの人に救われて欲しいと思い伝道する。

 しかし、様々な事や人に躓き、礼拝に来なくなったり、世のものや人に惹かれ、、それらを礼拝より、主イエスより大切にする人もいる。また、キリスト者になっても、苦しみ悩む状況が変わらない人もいる。そのような人を見ると心が痛み、祈っても祈っても変わらないことに、自分自身が深い闇に落ちてしまう時もある。祈りの言葉さえ出てこないこともある。しかしその時、私達は、その人々の呻き苦しみを感じても、自分の無力さを感じるだけで終わってしまうことはないか。

 黙示録3:17「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実は惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」との御言葉に耳を傾けてみよう。私は、自分は富んでいる、豊かだ、足りないものは何もないとは思っていなくても、この世の富や世の煩いに自身の惨めさがぼやけているのではないか。無意識的に自分を安全なところに置いているので、他の人々の呻き苦しみを正に他人事としか感じられず、遠い漠然とした事としか思えない私になっていないかと反省せよ、と迫られたのを感じた。
 しかし、私だけでなく、そのような主の恵み、祝福無しに生きていけない存在だとの自覚が漠然としてしまっている私達だからこそ、御霊が助けるのだとパウロは教える。勿論、肉体的、精神的に、或いは経済的に様々なものを必要としている人々が癒され、与えられ、安心でき、意味ある人生を送る為に、私達は主に祈り求めている。しかし実際は、確信をもって祈れず、その内にどう祈ったら良いかが分からなくなってしまう経験をすることが多いというのが現実ではないか。

 だからパウロは、確信を持てなくても良い、言葉にならなくても良い、むしろそんな自分の弱さを認め、惨めな自分のまま、呻けば良い。御霊がこの弱く惨めな私達を助けるからと教える。パウロは復活した主に出会うまでは、強さを誇る人間だった。彼の博学、情熱、行動力は当時の人々の中でも群を抜いていた。しかし主に出会い、それ迄誇りに思っていた一切が糞土にしか見えなくなった。主の愛に包まれ、自分が主の御前に裸だと気付かされた時、彼の価値観は一変した。

 「私は本当に惨めな人間です」と告白した。その時、彼はその弱い自分を御霊が助け、神が万事を益とする方と知らされた。私達も自分の力ではどうにもならない 自分の弱さ、人の弱さ、世の矛盾に、祈りの言葉が見つからない時は、ただ呻くだけで良い、御霊が執り成すからと、彼は自分の体験から教えている。ここに彼に対する、そして私達に対する神の深い愛と暖かい配慮を感じさせられる。

 主の目には私達は裸。自分をよく見て貰おうと思う必要もない。言葉を選ぶ必要もない。言葉にならない呻きで良い。それしか出来ない私達の呻きが、御霊の助けにより、御旨にかなう祈りにとなって神に届く。全てを知る神に感謝しよう。