メッセージ(大谷孝志師)

私達を世に遣わす主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年4月25日
聖書 エレミヤ4:19-28「私達を世に遣わす主」  大谷孝志牧師

 第四主日に旧約聖書を通して学んでいます。2,3月は受難節でしたので久し振りになります。聖書には旧約と新約があります。旧約は、罪に囚われ、神に背く人々の世界、そのままでは神の怒りにより滅ぼされる世界だからこそ神が将来世に与える主イエスの十字架を指し示しています。新約は、罪から解放され、主イエスを信じて救われ、神の愛に包まれた人々の世界から、過去に全ての人の救いの為に贖いの死を遂げた主の十字架を指し示しています。

 今日の箇所を通して、私達は預言者であること、預言者とはどんな存在かを知らされます。私達は皆、神の御心を知り、それを世の人々に告げる務めを与えられています。彼はその預言者として呻き苦しんでいます。神の民でありながら神に背くユダとエルサレムの人々に、神が裁き下す災いを告げなければならないからです。彼が呻き苦しんでいるのは、彼が神と人々の間にいると共に、ユダの人々と同じ立場、同じ所に立たされているからです。

 私達は世の人々に福音を伝えています。主がそれを命じるからです。それだけでなく、福音を伝えなければと思っています。神が世に行う裁きの恐ろしさを聖書を通して知るからです。世の人々は彼の預言を聞いた人々のように私達の言葉に耳を貸しません。主イエスを信じないで罪人のままの人、いのちの書に名が記されていない人は、最後の審判の時、火の池に投げ込まれ(黙示録20:15)ます。しかし、神は人を滅ぼす為に創造したのではありません。神と共にいる者として造ったのです。ご自分が創造した人を滅ぼすことを望まない神は滅びに向かって歩む人に、主イエスを信じる者のは救われるとの福音を伝え、人々を悔い改めて、神に立ち帰るよう導けと命じています。神は「だれも滅びることがなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(Ⅱペテロ3:9)」からです。その為に主は私達の働きを必要としています。

 今日の聖書には、世の人々の罪を赦さず、神に逆らう彼らを滅ぼす為に送る凄まじい敵の角笛の音と雄叫びが記されています。それは、神がこれを必ず行うという御心を幻で示したのです。彼はその幻に恐れをなし、縮み上がり、叫びました。でも、彼はその光景だけに恐れ戦いたのではありません。彼が神を神として崇めない人々に下す災いを告げる使者となることは、人々に救いの道か滅びの道かの選択を迫ることです。しかし、彼らの生き方を見てきた彼には、彼らが主に立ち帰ろうとしないことは明らかでした、勿論、彼は人々を災いから免れさせよう願っています。でも神が人々を滅ぼす時、預言者に召された彼は、神に背く彼らを滅ぼす神の側と同時に、滅ぼされる人々の側にも立たされるのです。彼が非常な苦痛を味わい、悶え苦しむのは、彼が罪を犯したからではありません。神ならぬ神、偶像に心を奪われ、神を神として崇めない彼らの罪を自分の罪として負っているのです。神が私達を世に遣わすのは、世の人々が救われる為です。その為には福音を伝えなければとの思いを強く持つことが必要です。だから主は、自分を滅ぼされる世の人々の立場に置き、滅ぼされる恐怖を味わい、苦しみ悶えよと命じるのです。

 なぜ神に立ち返ることが人には必要なのでしょう。立ち帰らなければ滅ぼされないだけでなく、立ち帰る人を神は祝福し、豊かで平安な生活を与えるからです。大事な事は、人は立ち帰ろうと思えば立ち帰られるということです。それなのに、何故多くの人々は神に立ち帰らないのでしょう。人は悪の支配下に置かれているからです。神が自分が創造したこの世界に悪の力の存在と、悪が力を発揮するのを許しています。考えると不思議で、意味が分からない思います。しかし、それが御心なのです。神は、人が自分の意思で神を自分達の神に選び、共に生きる者となることを望むからです。主イエスの十字架により悪の決定的力を神は奪いました。しかし人を誘惑し神から引き離す力は残したのです。神が人に自由、選択の自由を与えておく為にです。

 さて。旧約の時代に戻ります。カナンに導き入れらた民は、その自由を使いイスラエルの神と共にバアルというカナンの偶像も神としたのです。十戒の第一戒を破ったのです。エレミヤの時代も人々はバアル崇拝を止めませんでした。神は怒りを発し、残虐で凄まじ力を持つ敵を送り、ユダを滅ぼそうとしています。彼が見聞きしたのは、現実ではなく幻です。ユダを滅ぼす為に神がバビロニアを送り込むのはこのかなり後です。しかし神は、彼に今後する事を現実のように幻で見せたので、恐怖に駆られたのです。彼が見たのは全てが混沌と恐怖でした。地は茫漠として何もなく、空に光は無く、山々は揺れ動き、丘は震え、人の姿はなく、空の鳥も飛び去っていました。豊かだった地は荒野となり、町々は打ち壊されていました。聖書は「主の前で、その燃える怒りによって」とそれが神の意志だと強調します。神が天地を創造した時「地は茫漠として何も」無かったように、神は今の世をその混沌の中に引き戻す幻を彼に見せたのです。これは今の私達への警告でもあります。人が主イエスの十字架と復活により示した御心を受け入れ、父なる神を真の神、私の神として崇め、従わなければこうなるという警告だからです。

 旧約聖書は、神は人を造ったが、人は神を神として崇めず、神の恵みの受け手とならず、神から見れば愚かで悟ることのない人々だったことを明らかにしています。神はこのような人々に怒りを発します。しかし、エレミヤに言ったように、人々を滅ぼし尽くさないのです。旧約の歴史は、人が神に背くなら、神が怒りの裁きを下すと教えます。しかし、旧約聖書は私達に自分の罪を見詰めさせると共に、それに対する神の峻厳と慈愛を知る大切さを教えるのです。そして時が満ち、神自身が罪と裁きの旧約の歴史に終止符を打ち時が来ました。神が主イエスにより神の民となる救いの道を開いたのです。

 新約聖書は、神の人の罪に対する決然たる意思を教えると共に、その罪にも拘わらず、神が自力で悪に勝ち、神に喜ばれる者になれない人を、御子イエスの十字架によって罪人のままで赦す神の愛を教えています。主イエスを信じるなら、誰でも救われ、神の子、神の愛と恵みの受け手となり、永遠の命が与えられます。この福音を伝える為に人々を世に遣わしました。神は私達も遣わしています。使命は人をキリスト者にすることではなく、自分がキリスト者としてこの世に生きることです。これが私達の使命と知りましょう。