メッセージ(大谷孝志師)

真に愛し合える群れに
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年5月2日
聖書 マタイ7:7-12「真に愛し合える群れに」  大谷孝志牧師

 私達は食べなければ生きてはいけません。朝、昼、晩とお米、パン、肉、魚、果物……と様々なものを食べています。その殆どは、他の人が様々な作業をして作り、収穫や収獲した物です。私達の中にも農業、工業、商業等の関係者はいますが、殆どの人は自分で食べ物を作ったり、収獲したりせずに、他の仕事や勉強をしたり、自分の好きな事をしていられます。それが出来るのは、私達の食べ物の為に一生懸命働いている人達がいるからです。そのような大勢の人達が働いているから、自分は生きていられると感謝しましょう。

 食べ物があるからと言って、殆どはそのままでは食べられません。母、中には父や他の家族等が料理して出してくれるから食べられるのではないでしょうか。私も父親として二度、子供達の食事の準備をしたことがあります。自分で作って食べさせるのは結構大変です。ですから今、食べられるようになっているのは素晴らしいことと感謝しています。食事を作っている人に、自分は幸せと感謝しましょう。神は私達に感謝する機会を与えているのです。

 とは言え、作り、用意したくても材料を買う金がなければどうしようもありません。父や母、家族等の働き手が得た収入があるから材料を買えます。その人々にも感謝しましょう。それだけでなく、私達が安心して買えるよう材料を売り買いをして働いている人達がいるから、安心して生活ができます。

 少し目をつむり、自分がどんなに多くの人達の働きによって生きていられるかを考えてみましょう。私達は一人で生きているのではありません。大勢の人に助けられています。他の人から自分が欲しいもの、必要なものを与えられて生きています。その事を意識し、心から感謝できる人になりましょう。互いに感謝し、受け入れ合える関係になる時、私達の生活に潤いが生じます。
 私達はそのような関係になれます。それは、これは何故かな、どういう意味かな、どうしたら良いのかを考えて、一番良いと思うものを選び、実行できる知恵と力を神に与えられているからです。人は誰でも自分は大事です。でも、自分にとって自分が大事なら、相手にとっても自分が一番大事と分かる筈です。ですから、人が正しく生きようとするなら、相手の身になって物事を考えて行えば良い、と聖書は教えています。ですから私達は、互いに助け合い、支え合って生きようとしています。そして感謝し合っています。感謝が相手に伝わることで、助け、支え合う関係がより暖かく豊かになり、求める人に良いものを自然に与えられるようになります。それを神が喜びます。

 さて、主の「求める者は与えられる、受ける」との教えをもう一度聞き直してみて下さい。叩く者の場合も「開かれる」と言います。つまり、与えられるから受け取れるし、開いて貰えるから中に入れるのです。この事実を私達は日常生活でうっかりすると見過ごしてしまいます。相手の与えるという行為があって、自分が受け取れるという事実を認めることが大事なのです。自分がして貰ったと認めると、感謝の思いが生まれ、求めると得るの間に相手の配慮、心遣いを認めると、互いの間に暖かい関係が生じてくるからです。

 求め、与えられる関係で最もよく見られるのは親子の間です。ですから、主も親子の関係を取り上げて「誰が、自分の子がパンを求めるのに石を与えるか」と言います。ユダヤでは普通のパンは石の形をし、蛇に似た魚があったから例に挙げたと考えられています。マスコミ報道で親子や、家族といった肉親の関係の中にも殺伐としたものを見ることがありますが、本来的には主の言葉は真実だと私は思います。でも、この世の人間関係の中で、好き嫌い、合う合わないが判断の材料になり、恨み、妬みが生じたりすることもあります。そして、求められても与えなかったり、捨てるような物を渡され、嫌な思いを私も経験したことがあります。相手はありがたいと思えという顔をするのですが、こちらは当然、感謝の思いが生じて来ませんでした。けれど主が言うように、親であれば、我が子に良い物を与えようと思い、害になるような物は与えないようにします。天にいる神にとって私達は子のような存在です。ですから、私達が求めるなら、神は私達に良いものを与えて下さいます、安心して神に求めれば良いので、「天にまします父なる神よ」と主も、主の祈りで呼び掛けるよう教えているのです。しかし、人は神の姿も声も見聞き出来ません。自分に起きた出来事を、これは神の恵み、御心と信じ、感謝するだけです。しかし人間関係においては、善し悪し、喜怒哀楽をストレートに感じさせられます。ですから主は、私達がこの世で平安に生きる道を教えます。神と人との縦の関係と人同士の横の関係の両方が良くなってこそ、この世で人は暖かく豊かな思いで安心して生きられると主は知るからです。そのような思いで私達が世に生きるのを、主が何よりも望んでいるからです。

 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい」と主は教えます。「これが律法と預言者です」とは聖書のことです。ということは、私達が神に喜ばれる者として生きる為に必要な事が聖書には書かれているのです。ですから、私達は礼拝で、祈祷会で聖書を学び、御心を教えられているのです。主は5:48で「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と教えました。「完全でありなさい」は、完全でない者は、自分に相応しい者として神が受け入れないのではありません。人は弱いです。自己中心的です。でも、神を目標に完全を目指すことはできる筈です。自分は駄目だと諦めずに、完全を目指し、完全になろうと心掛けることが大事なのです。そう生きようとする時、人の心が解放され「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(22:39)」との御言葉に生き、互いに必要なものを求め合い、与え合う関係に生き、互いに感謝し合える群れとなれるのです。主は私達にできない事を命じるのではありません。主はできないのを知っています。だから「神にはどんなことでもできる」と教えるのです。神に求めるなら、神は私達を変え、隣人を自分自身のように愛する者に変えてくれます。そして教会がそのような人々の群れとなるなら、地の塩、世の光となり、主がこの地に建てた教会として、御旨に応える群れになれます。神に求めれば、神は与えます。互いに助け、支え合い、感謝し合い、教会には心暖かく豊かな人々がいる、と世の人に認められる教会を目指しましょう。