メッセージ(大谷孝志師)
闇の世界を包む光
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年5月2日
ローマ10:1-4「闇の世界を包む光」 牧師 大谷 孝志

 神は、私達主イエス・キリストを信じる者の味方。しかし、それ以外の人にとっては敵なのか。そうでは無い。神は全ての人の味方となってくれる方。神は、全ての人を愛している。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。私達が信じる神も同じ。神はその人の宗教がなんであろうと、その人の心が自分の方に向きさせすれば、その人を自分の民として受け入れる方。と言うのは、神は全ての人に対し、その心が自分の方に向くようにと、様々な人と機会を用いて働き掛け続けているから。だから、私達一人一人は教会に連なっている。聖書は全ての人は神の支配の中に入れられていると教える。神はキリスト者にしか影響力を持てない方ではない。では、何故私達の周囲にキリスト者が少ないのだろうか。

 この世界が闇に満ちているので、生まれながらの人は、この世界が「神が支配する世界」と知ることができないから。それなのに、何故私達はキリスト者に成れたのか。何故神を信じようと思ったのか。それは闇の世界に、神が支配する光の世界の記憶があるから。手掛かりが残っている。人の知恵や記憶がそう。神がご自分の形としてご自分の似姿に造ったから、神の存在を感じ取ることができる。しかし世の人々は神から離れ闇の中にいるので、真の神の存在を確信できない。

 実はもう一つ有力な手掛かりがある。それが教会。ここには真の神の世界の存在を確信した人々がいる。しかし、記憶は示せても光そのものを示せないから、世の人々は教会に来ても、心は闇に覆われたまま、自分を光が照らしているのに気付けない。聖書も説教も覆いがかかったまま。ただ読んだり、聞いたりしているだけでは分からない。しかし教会、説教、聖書は光に照らされている。だから、教会の交わりに触れていると、この世とは違う何かを感じ取れ、求めたくなる。

 しかし、世の人々の中にも自分が人間の知恵や力、或いは偶然が支配する世界に生きていることに、不安を感じたり、このままでは無気力になると考える人もいる。そして、様々な神仏を信じることで、前向きに生きようとし、一生懸命に生きようとしている人も多い。その中には、何らかの人や超越的存在に頼ることで、自分の存在を確かなものにしようとする人もいる。。そして厳しい修行や深い瞑想から真理と思われるものを発見し、自分が得た方法で人々を自分が感じ取った光の世界に導こうと熱心に人々に伝えている人もいる。そういう人は善意で、誠実にそれらの事をしている。でも、その人達はどんなに善意で誠実であっても、滅びに向かって生きている。パウロが言うようにその熱心さが深い知識から出たものではないから。私達が信じ、伝えようと思っている主イエスを信じれば救われるという真理が、深い知識から出たものであることを、どうしたら知って貰えるか。聖書と私達が信じる福音の中に、独善でなく、最前の道があると知って貰えるか。

 相手に、主イエス・キリストこそが救い主、真の人生の導き手であると知って欲しいと真剣に願う以外にない。主に願い求めるなら、主が助けるから。そして、真の光が相手に届き、その人の内に記憶として残るという私達にも起きた出来事を主が起こす。何故なら、人の目には闇でも、既に神の真の光がこの世界を包み込んでいるから。神が必要な時に、その光をその人の人生に差し込み、その光の中に生かす。その為には、私達自身が主イエスを信じ救われ体験している光の世界に生きる喜びを味わいながらこの世に生きていよう。そしてこの世界が光に包まれている事実を、真の希望を持てない世の人々に熱心に、誠実に伝えて行こう。