メッセージ(大谷孝志師)
一途な信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年5月9日
マルコ10:46-52「一途な信仰」 牧師 大谷 孝志

昔、高校生の時、初めて教会学校の夏季キャンプでお話をした。その時の聖書がここだった。キャンプファイアーを囲んでいる子供達に「さっきまで暗くて相手の顔がはっきり見えなかったのに、今は光に照らされて、よく見えるね。見えるというのは素晴らしい事。バルティマイは主イエスによって見えるようにして頂いた。私達も心が暗いと、友達のこと、家の人のこと、主イエスのことが良く分からなくなってしまう。そして生きていく為に何が一番大切なのかが分からなくなり、心が暗くなってしまう。だからこのバルティマイのように、主イエスにお願いして見えるようにして頂き、明るい心になり、自分の周りにいる人を愛することができる人になろう」と話した。この頃は特に、教会に行くことが好きで好きで堪らなく、一週間に五日教会に行き、高校の担任に「お前そんなに教会に行っていて大丈夫かと言われた程。私にとっては教会が文字通り全てだった。

 バルティマイが見えるようになったのは、一途に主イエスに向かっていったから。彼には主への一本の道しか見えなかった。彼が叫び出した時、周りにいた多くの人々が彼を黙らせ、たしなめた。しかし彼には主しか見えなかった。しかし私達は主イエス以外の多くのものが見えてしまっていないか。しかし私達が見るべきなのはただ一人主イエス。バルティマイは目が見えないから、見えるようにして欲しいから、主に憐れみを叫び求めた。しかし彼の目に主イエスが見えていた訳ではない。彼は見えない目で一生懸命に主を見詰め、主に向かって突き進んだ。

 私達にも主イエスは見えない。この世の色々なものが見えるので、誘惑に陥る。昔、祖母の所に来た按摩さんが、私が畳に置いてあった大きな包みに躓き、大声を出した時「目明きの人は不自由だね」と笑った。目が見えないより、見えた方が良いには違いない。しかしバルティマイは、目が見えないから見えるようになりたい一心で主イエスに叫び求め、癒やされ、主に従って行った。もし見えていたら、これほど一途に求めただろうか。見えない自分だったから素晴らしい恵みを体験できた。主はヨハネ9:41で「今、私は見える」と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」と言う。私達も彼のように、見えない目で一途に主イエスを求め、主に恵みと平安を与えられる者になりたいと思う。主イエスは私達が「あなたしかいません」と一途に求めるなら、喜んで応える方。私達には主イエスは目に見えないし、声も聞こえないから信じるしかない。でも、そう信じて主イエスに向かって歩めば良い。主は求める者は与えられると教えている。

 では、私達がいつも見ている相手の人の心はどうだろうか。人の心も見えない。そして主イエス以上に見えないことに不安になることもある。信じようとは思う。でも闇雲に信じるだけでは不安は消えない。でも人に対しても主の約束は有効。その事を信じよう、一途に主イエスの約束を信じよう。主を信じると相手も信じることが出来る。私達は教会の交わりの中でその事を経験している。それが教会の善いところでもある。私達の信頼関係を主が大丈夫と保証してくれるから。

 主は言う、わたしが道、真理で、いのちと。私達の充実した生き甲斐のある人生、良い人間関係は主への一途な信仰によって与えられる。バルティマイはその信仰により、求めるものを得、目が見えるようになった。その信仰によって他の弟子達と共に主に従って生きる者となった。皆が主イエスへの一途な信仰をもって生きる時、私達も同じ道を歩く仲間同士になれる。皆が主に繋がっているから。