メッセージ(大谷孝志師)

唯一の神 主イエス
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年5月16日
聖書 ヨハネ1:1-5「唯一の神 主イエス」  大谷孝志牧師

 今月から第二週にヨハネの福音書を学ぶ予定でしたが、先週は母の日でしたので、今月は今日学びます。この福音書は、他の福音書が「共観福音書」と呼ばれるのに対し、「第四福音書」と呼ばれます。共観福音書が原マルコと呼ばれる福音書を基盤とし、多くの共通した物語が記されているのに対し、ヨハネには六つの出来事しかないからです。この書が書かれたのは一世紀末です。70年にエルサレムが陥落し、神殿が崩壊しても終末の出来事が起きなかったことに、ユダヤ教は大きな襲撃を受けました。ユダヤ教は再建を図り、キリスト教に対し異端宣言が出しました。ローマは公認宗教から外し、95年頃にドミティアヌス帝により大迫害が起きました。神はそれによりキリスト教会にそれ迄残っていたユダヤ教的キリスト教要素を払拭させます。そして民俗宗教の枠を越えた世界宗教として独立していく道を歩ませました。ヨハネはその状況の中で、主イエスが自分を「光」、「命」、「道」、「真理」と多くの言葉で自分を表していると私達に伝え、それがこの福音書の特色になっています。

 ヨハネは「初めに」と、この福音書を書き始めます。「初め」は神が天地を創造した時、地は茫漠として何もなかった時です。神が「光、あれ」と言うと光がありました。この事から「初め」、万物が創造される以前に、「ことば」があったと教えます。しかし「この方は、初めに神とともにおられた」は、イエスが神とは別の神として世の始まる前からいたと言うのではありません。使徒7:60のステパノの「天が開けて、人の子(主イエス)が神の右に立っているのが見える」との言葉をそう考える人々もいました。しかしヨハネは複数神信仰ではなく、唯一神信仰に立っています。ですから、彼はこの世で人とした生き、十字架で殺されたイエス、天に上り、神の右にいるイエスと神は一つだと教えているのです。つまり二人の神がいるのではなく、神が全ての人の罪を贖う為に、人となって十字架に掛かって死んだのです。その死によって人の罪を贖う神とそれを受け入れ、赦す神が私達が信じ礼拝している神なのです。一人の神によって為された救いの業なのです。神自身でなければ全ての人の罪を負って死ぬこと事も、甦ってその事実を人に明らかにすることも出来ないからです。これは人の常識を越えたことです。ですからそれを人に分かるように、御霊の働きによりステパノに見せたのです。神がどんな方であるかは、御霊の助け無くしては私達人間には悟れないことだからです。

 2節の「この方」は、神であり人である私達の主イエス・キリストです。Ⅰヨハネ1:1を見ると「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、、すなわち、いのちのことば」とあります。ヨハネは主イエスと生活を共にしたので、主をよく知っています。勿論、彼は天地創造の目撃者ではありません。しかし彼は、世の初め、天地創造の前から主イエスがいて、ことば(ロゴス)として万物を創造したと知っていると私達に教えています。神はこの事を通して、人は御霊が示したことにより、見ていない真理を知ることができると教えています。

 さてヨハネは、人として世に来た主イエスと共に生きる中で、この方にはいのちがあると知りました。「いのち」も天地創造の出来事のように目で見て確認できるのものではありません。彼は目で見ている主イエスの内に命があると、やはり御霊に助けられて知ったのです。更に彼は「このいのちは人の光であった」と教えます。私達は主イエスを信じています。そして、生き生きと生きられる経験をしています。それが出来ているのは、主の内にあるいのちを頂いているからなのですが、何故、そう思えるのでしょうか。幾ら考えても、その力は世のものとは思えないし、自分の内から生じたとも思えません。ですから私達は、主イエスのいのちを頂いたからと信じているのです。

 しかし弟子達は、主と生活を共にしていても、「わたしが道であり、真理であり、いのちでなのです」との主の言葉を理解できなませんでした。心が闇だったからです。主イエスが共にいるということは、自分達は光の光に照らされているのです。しかし、彼らは主が逮捕されると、主を見捨てて逃げ去りました。主の真の姿が見えていなかったからです。ヨハネを含む三人は山上で変貌し、衣が非常に白く輝く神の御子としての主イエスの姿を見ました。彼らには、それは幻のようなものだったのだったかもしれません。それ程尋常でない出来事だったからです。聖書を読むと、彼らは迷ったり、恐れたり、主のことが分からなかったりしています。しかしヨハネが「光は闇の中に輝いている」と言うように、聖書は、彼らは主の光に捕らえられていたと教えています。彼らが疑い、惑い、その心が主から離れていても、主の方で、彼らをしっかりと愛で包み込んでいたからです。闇の力が、彼らを主の十字架の死に動揺させ、恐れてさせたのは確かです。しかし、復活の主が彼らに現れ、平安を与えました。パウロもコリント第一15:27で「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」と言っています。彼は、主の弟子を迫害し、殺害する為に、息巻いてダマスコに向かう途中、天からの光に照らされ、主の声を聞き、変えられ、主の僕になりました。そしてヨハネ達も闇に負けずに、祈りつつ自分達が変えられるのを待ち続けました。そして次週お話しするように、聖霊降臨により力を受けた彼らは大きく変えられ、主の証人となって福音を伝えていったのです。そして私達も主の証人となった人々を通して、主の光に照らされ、この世で生き生きと主と共に生きる者となっています。感謝です。

 しかし世に生きる限り、私達も闇に囚らわれる時があります。私達の人生は平坦な一本道ではありません。山あり谷ありで、行き止まりになったり、断崖絶壁の道を通らなければならないこともあります。しかし私達は歩み続けることができます。主を仰ぎ見れば良いと知っているからです。見えない主に目を注ぐなら、闇の中であっても、主の光が輝いていると分かり、安心して前向きに希望をもって生きられるのです。ヨハネ第一5:5に「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。」とあります。主イエスが勝利者として、そしてイエスが唯一の神として私達と常に共にいます。その主がいつも共にいると信じましょう。平安が与えられます。