メッセージ(大谷孝志師)
神の世界に生きる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年5月23日
ガラテヤ1:6-10「神の世界に生きる」 牧師 大谷 孝志

 私達が宣べ伝える福音は、人々の生き方を心の底から新しくする力がある福音。何故なら、この世界は偶然の出来事によって変化するのではなく、神が御心によって全てを行っている世界だから。福音は人々に全く新しい世界観を示し、それが真実の世界と教える。パウロはこの福音をガラテヤ地方に住む人々に伝えた。

 彼の目の前には新しい世界が広がっていた。それは主イエスの十字架の死と復活によって切り開かれた世界。神が全てを支配する世界。そして主イエスを信じる人々が平安と喜びに満ち、希望に溢れて歩んでいる世界。この世界を彼は歩んでいる。彼は自分が歩んでいる世界が現実にあり、ガラテヤ地方の人々もこの世界の存在を知り、自分のように生きて欲しいと願うから、彼らに福音を伝えた。

 しかし現実はどうだったかと言えば、新約聖書の彼の手紙を読むと、私達だったら落ち込んでしまい、浮かび上がれそうも無い程の迫害、無理解に彼は出会っている。しかし、彼はそれらを喜んでいる。何故か「信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられ(5:2)」たから。彼は数々の苦難に遭いながらも「苦難さえ喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す(5:3,4)」と知っているから。自分が直面し、体験する出来事によって、自分が鍛えられ、成長していくのを感じていたから。

 ガラテヤ地方の人々はパウロが伝えた福音を聞いて、素晴らしいと思ったから信じた。この世界が神が支配する世界と信じ、今までとは違う、自分の力ではなく、神が与える力によって生き、そのように生きる幸いを知った。しかし彼らは逆戻りをしてしまった。彼らは福音を聞き、主イエスを信じて人生観、世界観が大きく変えられた。でも人は現状維持の方を好み、その生き方に惹かれ、捨て切れない。出エジプトの時のイスラエルのように、何か不満が生じると、前の方が良かったと思ってしまうから。ただ神を信じれば良いのだが、人は信じ切れない。

 主イエスを信じれば救われ、信仰によってのみ救われるという福音は、彼らにとって判りにくいものだった。彼らは割礼を受け、律法を守れば神の民となれるとの教えのように、外側から見て分かる条件の方が判り易かったから。教会に来始めた人も同じ。でもそれは、自分の力で自分の生活をより良くしようとするに過ぎない。外側を幾ら整えても、本当に、心から安心できる生活には成らない。

 内面が変わらないと本当の幸いな人にはなれない。どこに原因があるのだろう。パウロは「人々に取り入ろうとしているのか、神に取り入ろうとしているのか」と自分に問い掛ける形で私達に問い掛ける。自分がどう思われているかは、相手の態度である程度判断できる。でも、幾ら人に喜ばれても、神に喜ばれなければ、私達は本当に幸いな人にはなればない。この世界は神が主として、支配している世界だから。しかし人には神が見えないから、その神に喜ばれようと思っても人にはとても難しい。だから、主イエスが十字架に掛かって死に、神の思いが人に分かるように,神と人の間の壁を取り除き、見えない主に目を注げば、私達の内に住む御霊が働き、自分達が今神の世界にいいるという霊的事実が分かるようにした。しかし彼らはその主が目の前に描き出されたのに惑わされてしまった(3:1)。私達も自分の世界に引き込み、神の世界にいるのを忘れさせようとする悪の力に惑わされずに、見えない主にしっかりと目を注ぎ、見えるものによらず、信仰によって歩んで行こう。神の世界にいると実感出来れば真に幸いな人になれるから。