メッセージ(大谷孝志師)

神の思いを知ろう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年5月30日
聖書 エレミヤ5:36-47「神の思いを知ろう」  大谷孝志牧師

 旧約聖書を読むと、そこに書かれている神は非常に厳しく、怖さえ感じます。しかし注意深く読むと、神は、逆らい背く人々を赦そうとしていると分かります。滅ぼしたいから滅ぼしているのではありません。今日の個所でも「もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう」と主は言います、主はエルサレム、イスラエルの人々を赦す為の根拠をエレミヤに探し回らせるのです。神は人を御自分と共に生きる者として創造したからです。しかし、旧約聖書は人が自分の力で神に赦される者になれなかった歴史を私達に教えています。ですから神は、神である御子主イエス・キリストを世に遣わし、神自身が全ての人の罪を身に受け、御子が十字架に掛かって死ぬことにより、人が罪赦される道を開いたのです。

 ですから今は、主イエスを信じるなら、その人は救われます。次週も旧約聖書を学びますが、これは新約聖書と同じように大切です。旧約聖書は、神が何故、自身に大きな痛みを受けることによって人の罪を赦すことにしたのかを明らかにすると共に、その背き続ける自分の民への深い愛をもって救いの道を開き、絶えず全ての人に御手を差し伸べていると教えているからです。

 神はエレミヤに、公正を行い、真実を求める者が一人いればエルサレムを赦そうと言いました。創世記18章のアブラハムの時は、神はソドムに十人の正しい者を見付けたら、滅ぼさないと約束しています。エレミヤには、一人でもいれば赦すと約束したのです。神の深い決意がここに現れていると言えます。その実現こそが、御子イエス・キリストの受肉、十字架の死と復活です。神は背き続ける自分が造った人々が、神を神とし、神と共に生きる者となることを願います。人を滅ぼすことは望みません。ですから「世を裁く為でなく、御子によって世が救われるため」に、神は御子を世に与えたのです。

 神は人を赦す為の条件を付けました。条件を満たせば人を赦そうと言ったのです。つまり、条件を守るという自分の意志で、彼らが神に立ち帰るなら、神は彼らを赦すと約束したのです。しかし、人々には神に罪を犯している意識はなかったのです。「主は生きておられる」と言い、彼らは、主こそが自分達の神で、神を神として礼拝していると思っていたからです。自分達は滅ぼされなければならない罪人だという意識は全くないのです。そこで彼は3節で、「神が彼らを打っても、民が神に立ち帰ることを拒み続けるのは、神が民の真実に目が届いていないからではないですか」と神に聞きます。これは神の働き掛けが十分ではないと思ったから言ったのではありません。神が、絶えず災いを繰り返し下すのは、自分の民に選んだ彼らが、自分の意思で神との真実な関係に立ち帰らせる為に、神が働き掛けて来たとは判っているのです。しかし、その神の働き掛けを無視し続け、心を頑なにしたままでいる民への思い、どうにもならない彼の深い悲しみが込められている言葉なのです。私達はこの彼らの姿こそ、私達の周囲の人々の姿と知り、神がこの深い愛をもって世の人々の為に、私達に福音を届けさせようとしていると知りましょう。

 さて、イスラエルの人々が神に立ち帰ろうとしない現実に直面していたエレミヤは、それなら他の人達と、主の道を知り、神は人の罪に対し、どんな裁きをするかを知っているかもしれないと思う身分の高い人達の所に行き、語り合いました。しかし、彼らも自分の事しか考えない人々、自分の利益を得る為なら相手の事を考えず、搾取し、その為なら暴力も辞さない人々でした。その上彼らは、神は、自分達がどんな生き方をしようとも何もできないと高をくくっていました。それでも神は、その人々に預言者を遣わし、御言葉を告げさせ、自分に立ち帰らせようとしました。しかし、彼らは預言者の言葉に耳を貸さず、その言葉は風のようなもので中身が無いし、自分に何の影響を与えることも出来ず、過ぎ去るだけだと言い、神を馬鹿にしたのです。

 神はエレミヤに、こに民を見捨てると言います。神を嘲る彼らに「あなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす(14節)」と罪を犯し、それに気付かない彼らに、激しい災いを下すと彼に告げます。しかし神は、彼らを滅ぼし尽くさない(18節)とも言います。民がどんなに背き、嘲ろうとも、神は彼らの神であることを止めない方です。とは言え、民にそのままでも良いと告げさせたのではありません。神は聖なる神、義なる神です。逆らう者を赦さず、徹底的に滅ぼします。しかし、神に立ち帰る者が有れば、その者を受け入れ、祝福するのです。その思いを神はエレミヤに示したのです。ですから人は、自分の罪の深さとその罪に対する神の怒りを知ればよいのです。神はそれを知らせる為に彼を遣わしたのです。パウロがローマ10:21で「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に」と言う主は今も、教会に来ようとしない私達の周囲の人達に手を差し伸べています。その事を知らせる為に、私達を世の人々に遣わしています。

 イスラエルに抱く思いと同じ思いで、神の民として神に仕え、神と共に生きる者となることを、この世の人々にも神が望んでいるからです。そのように、真の平和と幸いな人生を主が用意しているのに、世の人々は自分の生活が今安定していれば何の問題もないと考えています。しかし人々が、有れば安心と頼りにしているものは、壊れたり、奪われれば無くなってしまいます。家や会社があるから安心して生活できると思っていても、これも壊れたり、他人のものになれば、無くなってしまいます。ですから聖書は、世の人々が世のものにではなく、主に頼り,主に仕えなければ、真の平安と幸いは得られないと教えます。神はエジプトの奴隷として苦しむ人々の呻きを聞き、救い出し、神の民として歩ませたように、神は、人が神と正しい関係を持ち、神に造られた人として互いに相手を大切にし、正しい人として生きるなら、神の子として歩ませてくれます。聖書はこの神の思いを私達に知らせています。神は恵みに満ちた晴らしい方です。神は闇の中にいて、恐れと不安に閉じ込められている人々を光の世界、喜びと希望に満ちた世界に導き入れようとしているのです。神の世の人へのこの思いをしっかりと受け止めましょう。私達自身が光の世界、喜びと希望に満ちた世界にいることを感謝し、その事実を世の人に伝えるなら、神がそれを喜びます。御心を行う者になりましょう。