メッセージ(大谷孝志師)
神はどんなお方なのか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年5月30日
出エジプト3:1-12「神はどんなお方なのか」 牧師 大谷 孝志

 旧約聖書を読んでいると、神って不思議だと思うことがある。新約聖書を読んでいてもそう思うことはあるが、感じ方が大きく違う。新約ではどうして神は、こんなにまでして人を愛せるのかと不思議に思い、旧約からは神について様々な印象を受け、どれが本当の神か、優しいのか厳しいのか判らない不思議な方と感じるから。しかし、旧約聖書が知らせる神について学ぶことは、新約の世界に生きる私達にとって欠かせない大事なこと。今日はモーセに現れた神を学ぶ。
 主は、燃え尽きない燃える柴の中で彼に現れた。主は彼の名を呼んだ。神は彼の名を知り、エジプトにいるイスラエルの人々の窮状を知る。神は私達の名も含め全てを知る。その事を知るのが私達の信仰の第一歩、大前提なのだと知ろう。

 主は全てを知る方なのに、何故「今、見よ、イスラエルの叫びはわたしに届いた」と言ったのか。これだけでは無い。聖書を読むと、主は分かっているはずなのに、放っているとしか思えない出来事が沢山ある。また、イスラエルの人々を脱出させる為とは言え、何でエジプト人の長男を全て殺したのか。またこの後、目的地カナンへの旅の途中、過ちを犯したからとは言え、数万の人々を主は殺した。何でそんな事したのかと思うが、旧約聖書が記すそのような主を見て、分からないと思う必要は無い。なぜなら聖書は旧約も新約も、人々に主とはどんな方か、イスラエルが神の民とされた理由と目的は何かを知らせる為に書かれた書だから。

 聖書は、人々との関わりの中で起きる出来事を通して、人とは何ものなのかを明らかにしている。旧約聖書は特に、数多くの個人の出来事が記されているが、どんな人がいたかを知らせることが目的では無い。聖書は、それらの人が主の様々な働き掛けを通して主を知り、自分のなすべき事を知る。しかし、少し経つと分からなくなるのを繰り返す姿を、私達に知らせている。人々の生き方、神への姿勢をありのままに記すことで、神は人に対してどのような方として関わり、接しているか、人はその神に対してどう関わり、接しているかを明らかにしている。だから、旧約聖書は神と神の民との葛藤の歴史。別の視点から見るなら、神がイスラエルを御自分の民であり続けさせる為に闘っている歴史とも言える。何故なら、旧約聖書の時は、神と人とは決定的に分かたれ、大きな壁が存在していた。人には神がよく分からないまま、神の民の神への服従と離反が繰り返されていた。

 しかし今は新約の時。神と人の関係は大きく変わった。神が御子イエスを世に与え、十字架の死により全ての人の罪を取り除いた。人が悔い改めて、主イエスを信じ、救われる、神はその人に聖霊という助け主を与える。だから私達は、神がどんな方かを知ることが出来る。旧約の時に生きるモーセは神を仰ぎ見るのを恐れ、顔を隠した。しかし私達は目に見えないが共にいる神にしっかりと目を注いで。語り掛け、祈り求めることが出来る。それだけでは無い。主が私達を友と呼び、モーセに「私が、あなたとともにいる」と言ったように、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と主が約束したことも知っている。

 主がモーセに「イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と命じたように、主は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と私達に命じる。神は真の光を知らず、闇の中で不安と恐れに縛られている世の人々を愛し、恵みを、将来と希望を与えようと、悪が支配する罪の世から救い出す為に、私達を人々に遣わしている。神の思いを知り立ち上がろう。「神我らと共にいます」。ハレルヤ!アーメン!