メッセージ(大谷孝志師)

私の唯一の神
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年6月6日
聖書 出エジプト20:1-7「私の唯一の神」  大谷孝志牧師

 私達向島キリスト教会は教会総会と新役員会を終え、新しい歩みを始めています。昨年度、コロナ禍の中でも、主は一人一人の健康を支え、悪いものから遠ざけ、礼拝、祈祷会を休むこと無く続けさせて下さいました。その歩みの中で与えられた恵みを数えつつ、今年度も私達の為に主が計画し備えられた道を歩み続けましょう。それは「災いではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるもの(エレミヤ29:11)」です。この一年も、一人一人が自分に出来る事を誠実に行いましょう。主は支えて下さいます。

 今日の個所は、主がシナイ山で神の民イスラエルが守るべき戒めをモーセに告げた言葉で、十戒と呼ばれます。その前半です。主は、エジプトで奴隷となり苦しんでいた彼らを救い出しました。エジプト王は一度は許したものの後悔し、大軍を率いて追跡しました。しかし主は、彼らを紅海に沈めて滅ぼしました。そして彼らがパンがないと呟けばマナを与え、肉が欲しいと言えばウズラを飛来させ、水が無いと言えば、モーセに命じて岩を打たせ,水を出させました。彼らは自分中心、自分の事しか考えず、苦しくなり、不安になると、主への不平をモーセにぶつけました。主はその彼らを神の民として相応しく生きる民とする為に、十戒を含む様々な戒めを彼らに与えたのです。

 主は人々に自分がどんな神かを知らせました。それが彼らが神の民として歩む第一歩だからです。主は言います。「私は、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたがたの神、主」と。イエスも私達に「私があなたの為に十字架に掛かって死に、復活したあなたの神、主」と語り掛けています。その主を信じていても、思い掛けない試練に遭うとつい、主に愚痴を言い、不平不満をぶつけてしまうことがあるのが私達ではないでしょうか。

 イスラエルは私達とは比較にならない程の主の深い愛と偉大な力を知っていました。それでも神に不平不満をぶつけたのはなぜでしょう。彼らは神が自分達の神だと信じてはいます。でもそうであるなら、何故、自分達が飢え、渇き、苦しんでいるのか。それは、その神が何もしてくれないからとしか思えなかったのです。だから彼らは神に文句を言いました。これは私達への教訓でもあります。神なら私達を荒野でこんな目に遭わせる筈はないと思った彼らは、自分達しか見ていないのです。神は、彼らや私達よりも遙かに偉大な方です。パウロはロマ11:33で「ああ、神の知恵と知識の富はなんと深いことでしょう」と言いました。私達が試練に遭っているなら、それは主の計画で、主が目的をもってしている事なのです。しかし、私達も自分が経験し見ている事で神を判断してしまうことがあります。神は全てを知った上で、全ての事を行っていると信じなさいと、聖書はそんな私達に語り掛けています。

 人は小さな信仰の持ち主になってはいけません。スケールの大きな信仰を持ちましょう。確かに人は弱く小さいです。でも神は、人を自分に象って造ったのです。外形だけではなく、内実もそうなのです。神は、人だけを特別な存在として造ったのです。気弱になり、卑屈になる必要は全くありません。

 パウロは自分や同労者の経験の中から「神は私達に,臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えている(2テモテ1:7」と言い、「神は私達の味方(ロマ8:31)」と言います。私達も現状を勝手に判断せず、神が私達にして来た様々な恵みを思い起こしましょう。自分に出来ないから、神にも出来ないと思う必要は全くありません。神が私達を見守り、助け導き続け、その時々に必要な恵みを与え、道を示したので、私達はこの世に生きて来られたと感謝しましょう。

 さて、神は十戒を授けるに当たり、先ず「わたしは、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたがたの神、主である」と言い、イスラエルの人々に、神が自分達に何をしたかを思い起こさせました。これは私達にとっても大事です。彼らは自分達の現状を見て、神が御力をもって悲惨な状況から救い出したから、今の自分達があるという事実を忘れているのです。私達も同じです。私達はイエスが主と知らされ、その事を信じ、信徒となったからここにいます。私達が今こうして生き続けていられるのは、十字架に掛かって死んで復活した主イエスが恵みと平安を与えているからです。

 彼らは、自分達にどうにもできないから神に叫び、それが神に届いたので、神がモーセを遣わし、彼に導かれ、彼らは神の約束の地、乳と蜜の流れる豊かな地に向かっているのです。神は恩着せがましく言ったのではありません。彼らにとって、事実を思い起こすことが必要だからです。私達にとっても必要です。主が私の人生において、どんな方かを確認することによって、私の信仰が力強いものになるからですう。「初心に帰れ」という言葉があります、主イエスを信じ救われた時の熱い思いを思い起こしましょう。今も、生き生きと生きる者に成りたければ、信徒としての原点に帰りましょう。原点は、信仰を告白し、バプテスマを受けた時だけではありません。その後の歩みの中でも、主は私達を見守り、或いは抱き抱えて共に歩み続け、主が共にいると知らせ、歩むべき道を、選択すべき事を私達に教えて来ている筈なのです。それを思い起こして下さい。信仰は思い込みではありません。過去に自分が経験した事実により、今の自分があると知ること、これが私達にとっても大切です。それにより信仰が確かなものになり、力強い歩みができるからです。

 神は彼らに、ただ御自分だけを神として拝み、仕えよと命じました。人は、神が御力を明らかに自分に示しても、神にひれ伏すより、神を自分に仕えさせようとしてしまうのです。人はどうしても、自分の人生を自分にとって安心安全なものにしようとする思いが先に立つからです。そこに、自分さえよければとの思いが入り、他人を排除し、神を自分の為の神と考え、神に仕えるのでなく、神を自分に仕えさせ、立場が逆転しているのに気付きません。その結果、悪魔に付けいる隙を与えてしまい、滅びに向かうことになります。

 神はその為に彼らをエジプトから導き出したのではないし、私達を罪と悪が支配する闇の世界から救い出したのではありません。神を私の唯一の神と崇め、神に仕えて生き、真の平安と喜びに満ちた神の民、神の子の群れとして生きる者とする為です。その為に神は十戒を与え、主イエスは新しい愛の戒めをました。ただ主のみを見上げ、主に喜ばれる一人一人になりましょう。