メッセージ(大谷孝志師)

全ての人を照らす真の光
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年6月13日
聖書 ヨハネ1:6-18「全ての人を照らす真の光」  大谷孝志牧師
 先月から第二聖日にヨハネの福音書を学び「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と学びました。何故光が闇の中に輝いているとヨハネは教えたのでしょう。田舎で夜道を歩いていた時、遠くに光を見付け、あそこが母の実家だと安心したことがあります。闇の中、光を目当てにそこに着き、家に入ると皆が、笑顔で迎え入れてくれました。当時は裸電球一つで、煌々としていた訳ではなかったのですが、影はあってもそこに闇は無く、光の世界でした。闇は人を不安にし、光は人に安心と喜びを与えます。ヨハネは「光は闇の中に輝いている」という言葉で、この世の現実を適切に表しているのです。確かに光は今も輝いています。この世は神が創造し、それを見て良しとされた天と地だからです。この世界は、昼は太陽、夜は月が明々と照らし、人を始めとしてあらゆるものが生きています。しかしその一方、この世に天地創造の時から闇は存在しています。創世記1章を読むと、神が「光、あれ」と言うと光がありました。最後に造られた人はその光により、物事を見極め、神と共に生きていました。しかし、闇の力が蛇という姿で人を誘惑し、神と人の関係を断絶させようとしました。誘惑に負けた人はエデンの園から追放されました。しかし、闇の力は神から人を切り離せません。神は全知全能、万物の支配者だからです。何より、人を人として大切にし、神の民として神の支配の中に生きる者として創造したからです。闇の力は、今も人を神から引き離し、自分の支配下に置こうとしています。私達もその中で試行錯誤し、自分の内に働く罪の故に悩み苦しみます。しかし光が闇の中に輝いているので闇は光に打ち勝てません。その世界に私達は生きてます。

 私達だけでなく、全ての人は「光が闇の中に輝く世界」に生きています。私自身も、闇の中に生き、不安と恐れ、希望に縋っても、裏切られ、時に絶望の淵に追いやられることもありました。しかし、その闇の中にも輝く光を見出し、主イエスを信じればよいと気付かされ、立ち直ったこともあります。

 教会に来るまでの私は、闇の中に光が輝いていても分かりませんでした。しかし教会に来ると、光について証しする人々がいました。彼らは光で無く、普通の人でした。でも光について証しする為、私の所に来た人々でした。ヨハネは「すべての人を照らす真の光が、世に来ようとしていた」と言います。主は、私達が生まれる前から世にいました。主は私を含め全ての者の創造者、一人一人の名を呼び、私を信じよと招いている方です。私も始めはイエスが主と聞かされても信じられませんでした。しかし今、主を信じ救われ、神の子とされています。信じると決心したのは私です。しかし私が望んで信じようと思って信じたのではありません。御霊が主が私に呼び掛けている声に気付かせてくれたからです。主イエスを信じ、霊の光に照らされ生きています。
 神は「ことば」を御子イエスという人としてこの世に与え、神の民イスラエル人の一人としてこの世で生活させました。ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た」と言います。弟子達には特別な賜物が与えられていたからです。

 ヨハネは第一の手紙では「初めからあったもの」「御父と共にあり、私たちに現れたこの永遠のいのち」と言っています。表現は違いますが、確かにイエスは人としてこの世に生きましたが、「先在の神である御子イエス」なのです。

 共観福音書が伝えるように、主イエスは「人」です。ですから弟子達は、ある時は恐れ、疑い、躓き、離れました。ペテロは主を叱責し、否認もしました。それなのにヨハネは、自分達が行動を共にしたイエスの内に「恵みとまことに満ちた」「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」を見たと言います。それは、彼らが復活した主イエスに出会い、主が完全に人でありながら、完全に神であると知らされたからです。相反する二つの事が一つになっているこの方こそが、私達が信じ従い、全てを委ねている主イエスです。

 バプテスマのヨハネだけは、主の本質を事前に見抜いていました。神はその為に彼を遣したからです。このヨハネは主を信じ救われた者のひな型です。彼は、世の人々が知らない事を御霊に知らされ、世の人々にその事実を知らせる為に、イエスについて証ししたのです。私達も世の人々が知らない事を知らされたのは、その事実を御霊に知らされた人々によってした。何故彼らは私達に知らせようと思ったのでしょう。著者ヨハネも自分達の経験に基づき「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」と言うように、人は主イエスを信じた時、豊かに恵みを受け、喜びに満たされ、この喜びを一人でも多くの人に伝えたいと思ったからです。

 さて、彼らは主に招かれたのですが、従ったのは自分の意思によってです。彼らは、主に従い、共に生きる中で、恵みの上に更に恵みを受けました。ですから、彼らは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」との命令を行える者となれたのです。主は今も「わたしに従え」と全ての人を招き、その為に私達を世の人々に遣わしています。私達も使徒達のように、弱さも欠点もあります。でも、主は十字架と復活の主です。私達の全てを知った上で、私達がその務めを果たすのに必要なものを整え、与えてくれます。私達も主というまことの光に照らされるので、人々を照らす光となれます。

 旧約の時代、神は民が神の民に相応しくなるよう、モーセによって律法を与えました。神を神として崇め、従い、罪から自由になり、人として正しく生きる者となる為です。しかし彼らは自分を第一にし、神に背き、滅びへの道を歩みました。ですから、神は「恵みと真によって」人を救う計画を立て、御子の十字架の贖いによって、御子イエスを信じるなら、その人を神の子どもとする計画を立てたのです。神はひとり子の栄光によって世を照らし、光に照らされ御子を信じた人々は、神の子どもとなれます。人の力、行いによってではなく、神が恵みによって人に救いの道を開いたからです。人は世に輝く真の光に照らされていると気付き、イエスを主キリスト、救い主と信じ、全てを委ねて従えば良いのです。この光は霊の光なので人の目には見えませんが、私達の心も人生もその真の光が照らしています。そして、主は私達を用いて、世の人の心も明るく照らしています。私達が主の光を反射し、世の光として輝いていると知りましょう。主は言います。「あなたがたは世の光です。」