メッセージ(大谷孝志師)
霊的に成長する為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年6月13日
ローマ15:1-6「霊的に成長する為に」 牧師 大谷 孝志
 パウロが「私達たち力ある者たちは」と言うが、世には力の弱い人達もいれば、強い人達もいる。100bを9秒台で走る人もいれば、私などは50bを10秒以上掛かった。その私は高校時代ベンチプレスで体重以上を挙げて柔道部に誘われた。剣道の方が好きで入らなかった。体力的だけでなく、少しの事を気に病んで挫ける人もいれば、少々の事ではびくともしない人もいる。肉体的、精神的強さは遺伝的要素や育った環境が大きく影響する。だが技術的要素となると本人の努力が大きく影響する。周りから見て、もう少し頑張ればできるのにと思う人が努力しないでだらだらしているのを見ると、イライラしたり、腹を立てたりしてしまう時も。

 信仰的にも強い人と弱い人がいるのは確か。でも、その信仰は自分の努力で得たものだろうか。信仰が強いと思える人も弱いと思われる人も、どの人の信仰も自分の努力で得たのではない。信仰は主から与えられたもの。しかし殆どの信徒は自分は信仰的に弱いと思い、しかも強い信仰の持ち主になりたいと思っている。でも、そうは思っても、信仰を強めて下さいと祈るよりも、自分や相手の信仰を裁くことが先に立ってしまうことはないだろうか。自分の場合だと結構謙遜に待てるが、他人だと、祈り方が足りないのでは、或いは真剣に祈っていないのではと考えてしまう。努力してもできない人と努力しない人の見分けはとても難しい。

 また、主を信じているなら、こう考える筈だ、もっと自由にできる筈だと、自分とは違う生き方、考え方をする人に、受けれられないものを感じてしまうことも。礼拝で五千円献金できる人もいれば、そんな事は考えたこともない人もいる筈。聖日礼拝を何が何でも厳守しようとする人もいれば、自由だと考える人もいる。

 人に気ままさを感じたとしても、信仰的でないと裁かないようにしよう。信仰的、信仰的でないは、私達人間が決めることではないから。自由にさせたら、秩序がなくなる。教会も組織だから、それを損なわないようにしなければと考える人もいる。ユダヤ人はイエスを見て、それが心配になり、殺そうと相談し、ローマ人の手を借りて十字架に付けて殺し、その自由を否定しようとした。パウロが伝えた福音を否定した人達も同じ。相手の自由を気にする必要も無いし、あの人に比べて自分は強いと自己満足する必要もない。「神が各自に分け与えた信仰の量りに応じて、慎み深く考え」て行えばよい。「思うべき限度を超えて思い上がってはいけ」ない。相手の弱さが気になるのは、それにより自分が影響を受けたくない、損を受けたくないと考えている場合が多い。この教会が地の塩、世の光となり、主に喜ばれる群れになる為には、互いに受け入れ合い、一人一人が主イエスに倣って生きよう。主イエスならどう思うかを考えて生きよう。自由が無秩序を生むと恐れずに、私達を信頼し、あるがままで受け入れた主イエスを信頼しよう。相手を信じなければと思うのではなく、主イエスを、その力と影響力を信じよう。

 信仰は与えられるもの。恵み、強さも良さも主が相手に与えた賜物と信じよう。主はこの教会に連なる一人一人を愛し、育てている。人の目には発達の程度は違って見える。でも主は、人間的に見れば弱い者もいれば強い者もいる私達を、一つの群れとし、心を合わせ、声を揃えて礼拝させている。身長体重の変化は目で分かるが、霊的成長の度合いは目で見ることはできないし、判断基準も人様々。自分が霊的に成長したいと願うことはできる。主は、私達にもできるとの希望を与えている。主は助けて下さる。一歩一歩、霊的成長を目指して進む者になろう。