メッセージ(大谷孝志師)

真の神を信じる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年6月27日
聖書 エレミヤ7:1-15「真の神を信じる」  大谷孝志牧師

 第四週はエレミヤ書を通して学んでいます。今日の個所は、自分達は神に選ばれ、神の民であり、神に救われたと信じるユダの町々に住むイスラエルの人々へ語れとエレミヤに命じた神の言葉です。11節の「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた」は、主イエスが、十字架の死が待つエルサレムにロバの子に乗って入った後、神殿で商売をしていた人々を追い出した時に引用した言葉です。私はこの個所の説教準備を通して、私達が置かれている現実と、だからこそ、主イエスが十字架に掛かって死ななければならなかったことを、改めて心に刻み直すよう主が私達に求めている、と知らされました。

 4節で主は「『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』という偽りのことばに信頼してはならない」と言います。主はこの言葉で私達に「ここはキリストの体である教会です」という信仰の告白を偽りの言葉にしてはならないと警告していると気付かされました。主は「あなたがたはこの教会がキリストの体であるよう注意していなさい」と私達に語り掛けているのです。私達が、ユダの人々と同じような事を気付かずにする時があると主は知っているからです。
 人々はエルサレム神殿に来ました。主を礼拝する為です、主に祝福された生活を送れていると感謝する為です。私達が教会に来るのも、暇だからでも、見学の為でもありません、主を礼拝する為です。主が私の救い主と信じているからです。勿論、悩み苦しみの中にいる時もあります。でも主は私の全てを知り、それらも必要だから私に与えたと信じています。主が共にいるから今の私があると感謝するから礼拝に来ています。パウロはこの事をⅠコリ10:13で「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」と教えています。私達もこの言葉を信じています。

 しかし今日の御言葉は、大切なことはそれを「役に立たない偽りの言葉にしない生き方を自分達がしていないかどうかですよ」と語り掛けています。主は私達を愛し、御手を差し伸べ、平安な生活ができるよう見守っています。主の愛は無償の愛です。見返りを私達に求めません。私達が神に背を向けたとしても、あの「放蕩息子の父」のように、主は私達が悔い改めて立ち帰るのを待ち続ける方です。では何故、主はエレミヤに御心を伝えさせたのでしょう。ユダの人々が、主が忌み嫌う悪を行い続けたからです。主は「あなたがたをわたしの前から追い払う」と告げさせるだけでなく、彼に「あなたは、この民のために祈ってはならない」と言います。聖書は私達に、主の御心に背き続けた彼らのようになってはいけない、と警告を発しているのです。
しかし、神はエレミヤに、~をしなければ、この場所にあなたがたを住まわせると民に告げよとも命じます。神は彼らに立ち帰る方法を知らせ、その時を待つと彼に告げさせたのです。神は人の罪は赦しません。でも、人を愛し、人が神のみに従い、神と共に喜んで生きる者となるのを願うからです。

 私達はこのユダの人々のように「寄留者、孤児、やもめを虐げ、咎なき者の血を流し、他の神々を信じ、従う」ことをしてはいません。でも、私達も神が忌み嫌う事をしていないでしょうか。何故この事を考えなければいけないかと言うと、神は私達が何をしているかを知っているからです。ヘブル4:12にあるように「神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されて」いるのです。
 神は罪を犯し続ける彼らを放置しません。主は私達の周囲の教会に来ようとしない人々も放置していません。預言者を通してユダの人々に御心を語り掛け続けたように、私達に世の人と接する機会、福音を伝える機会を与え続けています。ユダの人々が聞こうとしないので、神は彼らを滅ぼすと言います。今の世の人達と違い、彼らは自分達が不信仰だと思っていません。神殿に来て「私達は救われている」と言うからです。彼らが神の民であるのは確かです。だから神は彼らに働き掛けるのです。しかし、神が手を差し伸べているのに、自分達の方から神と関係を遮断しているのに気付きません。神は、かつて御自分を現した主の家があったシロという町にしたのと同じ事を行い、今彼らが頼みとするエルサレム神殿を壊滅するとエレミヤに伝えます。人の信仰が形だけのものになり、中身が無ければ、彼らを滅ぼすしかなく、神が神殿をそこに置いている意味が無くなるからです。聖書は、この教会に集う私達に、自分達の信仰を見詰め直し、吟味し、神がこの地に教会を建て、私達が何故、主を礼拝しているのか、その意味を考えよと問い掛けています。

 主は、この地を選び、ここに教会を立てました。主イエスを信じる人々、主を礼拝する群れ為の場所と建物が必要だったからです。そして、先人達がこの地域の人々に福音を伝え、幼児教育を通して福音の浸透を図る為にダビデ園を開設しました。商売する為でも牧師の生活を支える為でもありません。救われる人が一人でも多く与えられる為です。主はその祈りに応えて、豊かな実りを与え続け、園が閉じられてからも、主は信徒一人一人の信仰を豊かに用いて、地の塩、世の光として世の人々に福音を伝え続けさせています。

 私達はそれぞれの地域から、歩いて、車で、自転車で、渡船を使ってここに集まっています。バラバラです。でも、主に会い、主を礼拝する為という同じ目的で集まり、主にある交わりの時を持っています。しかしユダの人々も主イエスの時代の人々も同じように、主を礼拝する為に、エルサレム神殿に来ました。しかし共に主は排斥しました。聖書は、信仰が形だけ、上辺だけになってはいけないと教えています。主はエレミヤを通して、人々が主のみを拝し、仕えるよう働き掛けさせました。しかし彼らが背き続けたので、自分達の罪を自覚させる為にバビロン補囚も行いました。しかし主イエスの時も、人々の信仰は形だけのものになったままでした。だから主が十字架に掛かって死に、全ての人の罪を贖い、信仰によって、ただ恵みによって救う道を開きました。私達は、ただ主のみを信じ、主にのみ従いましょう。主以外のものに心奪われ、主以外のことで心が一杯になってはいけません。信じ従っていると思い込んでいるだけでは駄目です。主に語り掛けるように祈り、み言葉に真剣に向き合い、十字架と復活の主を意識して日々生活しましょう。