メッセージ(大谷孝志師)
教会の人間関係
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年6月27日
Tコリント12:14-18「教会の人間関係」 牧師 大谷 孝志

 教会は人間の集まりなので、様々な問題が起きることがある。皆が同じなら、問題が起きないが、個性、感情、能力等の違いから、誤解が生じ、問題が起きる。大切なのは、一人一人の能力は賜物と考えること。しかし、人はどうしても比べてしまう。中には、能力の有る人、仕事のできる人を別格扱してしまう人もいる。

 パウロは、確かに賜物には色々あると認めるが、与える方は同じ御霊と言う。また、奉仕にも色々あるが、仕える相手は同じ主だと言う。働きにも色々あるが、同じ神が全ての人の中で、全ての働きをしていると言う。全ては主の御旨、御手による業だと言う。つい、素晴らしい事ができる人を見ると羨望の目で見てしまうことがあるが、それは間違い。主が必要だからその人にはそれだけの事ができた。勿論主に用いられてしたとは言え、その人が労したことは認め、その人に感謝することは大切。しかし真にすべき事は、私、私達にそれが必要と主が知り、その人を用いて、主がさせたと、主に感謝すること。全てはしていると信じよう。

 しかし主を信じ、信者であっても、皆人間であることに変わりは無い。どうしても違いが気になってしまう。何故か。それは物事を自分中心に考えているから。そして自分はあの人のようにできないと、自分を卑下することがある。教会は出来る人ばかりではなく、弱い人も、礼拝に出席するだけの人もいるのがその証拠。主は一人一人にこの教会が必要と知り、招き入れた。どんな人でも安心して教会の交わりに入れる所、誰もが、人として生き生きと生きられる所、それが教会。歴史を見てもキリスト者は、社会的弱者の味方となり、敗者が人生をやり直す手助けをしてきた。弱く見える人、自分に生きる価値はないと思う人にも、この世に生きる権利があると知るから。主は一人一人にとってそこを居場所にする方。

 そして、あの人は教会に必要ないと考えるのも間違い。どんな人も、主がその人がこの教会に必要だと知るから招き入れた。その人がいるのは、主の方に理由があると知ろう。でも人は自分で相手の価値を判断してしまう弱さが。目には手の、頭には足の大切さが判らないように、人が相手を要らないと思うのも間違い。誰でも主に、私自身に必要だからその人が教会にいると知ろう。主はどんな人も教会に必要ないとは考えない。その主の思いを持って相手を見よう。その人が持つ良さが見えてくる。その人がいるだけで言いと思えるようになる。人にとって、他の人に自分の存在がそのまま認められ、受け入れられる程嬉しいことはない。

 主がそのように、教会の人間関係の中に調和を与える。教会に初めて来た人の中に、教会の人が同じように輝いて見えたと言う人がいた。信徒も様々な弱さや重荷を負って教会に来ている。でも、主が内面に喜びを満たし、それを顔に出させてくれているから。また、主を信じていると、相手の悩みや喜びを敏感に感じて、その人に優しい感情を抱く時も。主が一人一人を御自分の体である教会の大切な部分部分とし、体全体に神経を張り巡らせて、足の痛みを感じて目や手が動くように、互いに分裂がなく、労り合い、支え合うように、主の愛が教会全体を包み込んでいる。このように、教会の人間関係には素晴らしい所が沢山ある。しかし、素晴らしい人が集まっているからではない。普通の人間の集まり、誤解や反発で敗れそうになることも。しかし破れそうで破れない。自分自身の真実の姿を悟らされる主イエスの十字架の愛、希望を与える復活の主の愛があり、その愛が互いの関係をしっかり結び合わせている。だから教会の人間関係は素晴らしい。