メッセージ(大谷孝志師)

証こそ恵みの時
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年7月4日
聖書 Ⅰコリント16:13-14「証こそ恵みの時」  大谷孝志牧師

 今から60年近く前になりますが、高校生の私は牧師に「大谷さん、3週間後の礼拝で証をお願いします」と言われました。日本バプテスト柏教会設立前の柏伝道所の時代です。でも、高校生の教会員だけで5,6名いました。この教会の讃美と証の礼拝とは違い、信徒が牧師の説教とは別に10分程度を証を時々していました。キリスト者になって1年余りの私なので、まだまだ番は来ないと思っていたのですが、牧師が突然指名してきたのです。それ迄に何人もの証を聞いていましたが、聞くのと話すのでは大違いです。牧師や先輩から「証は自慢話になってはいけない」「普段、キリスト者として生活していれば証の材料はいくらでもあります」「神様の恵みを数えてみることです」と色々と教えられました。でも、初めての証です。何を話して良いか分からず、当日のCSの分級での話を終えてからも、未だ思案している状態でした。当時はCSが盛んで、隣りが小学校だったからだけではありませんが、各学年10名前後の児童がいてとても賑やかでした。バプテスマを受けてすぐに、CS教師をしないかとの話があり、最初の半年は副担で、その後担任になり、8人程の子供達に礼拝後の分級で話をしていました。そちらの方はテキストを暗記すれば良かったのですが、証はそうはいきません。友達とは気楽に話せましたが、人前で話すとなると、ああ言えば良かったとか、何でこんな事に気付かなかったとか、後悔ばかりが心に浮かんでくるので、話すのは大の苦手でした。学校や教会で、他人が上手にまとまりのある話をするのを羨望の眼差しで見ることもしばしばでした。そんな自分に対する悔しさもあって、後悔しない話し方ができる人間を目指しました。今のように説教を原稿にして話すようになったのも、その苦い思いがあったからかもしれないと思います。

 さて、証をする礼拝の時が刻々と迫る中、私はふらっと聖書を片手に持って散歩に出ました。CSと礼拝迄の間に20分程の時間があったからです。どんな話をしようかと考えながら聖書を開いた時に、私の目に飛び込んできたのが、先程読んだ箇所Ⅰコリント16:13,14だったのです。私はこの聖句を主に与えられたことを感謝しました。短く祈った後、喜んで教会に戻り、礼拝に出席して証をしました。 今から60年も前の話です。生まれてないか、生まれて間もない方も多い頃の話です。具体的内容は忘れましたが、その聖句を選ぶことになった経過、その聖句によって、自分がどんなに励まされ、自分の生き方について考えさせられたこと、更には道を示されたような気がしたかを話した記憶はあります。それ以後、残念ながら証の依頼は無く、牧師になってからは説教だけです。ですから、それが最初で最後の証になりました。

 礼拝の中で語られるものに、証と奨励と説教があります。証、奨励、説教はどこが同じでどこが違うのでしょうか。説教は、教師と呼ばれる牧師、伝道師、神学校で学び信徒伝道者と教会が認めた信徒、引退教師等が行います。奨励は説教と同じ重さを持つので、一般的には役員会が説教者と認めた教会役員等の信徒が行います。証は、信徒であれば誰でも行うことができます。
 牧師がおらず、奨励者も証者も申し出る者がなければ、他教会の教師に説教を依頼し、いなければテープで説教を聴く教会もあります。何故かと言えば「み言葉が語られること無しには礼拝は成立しない」と考えるからです。

 証は自分に起きた出来事や経験の上に立っての話の性格が一番強いのは確かです。でも、自分達の人生経験や生活技術、失敗談や成功談ではありません。証は、神のキリストにおける救いの業、主の恵みを人々に伝え、主イエスを救い主と指し示すものです。説教や奨励と同じように、み言葉を通して知らされた御旨・御心が語られていることと、罪を赦され、救われた喜びが語られ、十字架に掛かって死に、復活した主イエスが私の救い主であるとの福音が、自分の経験を通して語られていることが証には求められます。しかし、私もそうでしたが、自分はなかなかみ言葉を正しく聞き取れないし、皆に分かるように話せないと不安を感じる人が多いのは確かです。しかし、自分の知恵と力で正しく証できる人は誰もいません。極端な言い方に聞こえるかも知れませんが、私達人間には証しするだけ力はないのです。何故なら、主イエスが救い主と知らせたのも、信仰告白へと導いたのも聖霊です。私に与えられ、私の内に住む聖霊が助けるからこそ私も証できると知りましょう。

 この私も初めて証を頼まれた時、証したいとは思いました。でも、何をどう話したらよいか判らず随分悩みました。言葉にならない呻きでした。でも、ロマ8:26「御霊も弱い私達を助けて下さいます。私達はどう祈ったらよいか判らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって執り成して下さる」との御言葉が実現したのです。私にみ言葉が示されました。主は私達の側にいて、必要な時に必要なものを与える方なのです。私達は心を主に向けて祈れば良いのです。私達は主イエスをキリスト、救い主、臨在の主と信じています。下を向いていた私に「雄々しく、強くありなさい」とのみ言葉が心に響き、私は上を向けました。そして、心から感謝して証できました。

 証は聞く人だけでなく、語る者自身にも豊かな力を与える機会なのです。証をし、証を聞く時は、教会にとって恵みの時ですが、それだけではありません。証は教会を成長させるいのちの泉なのです。20年前の同盟総会で採択された「日本バプテスト同盟信仰宣言」で「わたしたちは、聖書を信仰と生活との基準とします」と宣言しています。私達には主が与える聖書といういつまでも渇くことのない水が湧き出る泉が与えられているのです。私達がその水を飲むと、今度はその水が私達の内で泉となり、永遠の命の水が湧き出るのです。だから私達は、聖書を信仰と生活の基準としているのです。聖書は誰もが読むことができます。でも大切なのは、祈りをもって、私に必要なものを与えてと主に求めつつ読むことです。すると聖書の言葉が神の言葉となって私達に語り掛けてきます。私達は気付かされ、励まされ、慰められ、生き方を変えられる経験ができます。それを自分の言葉で言い表すのが証です。それに、聖書には私達を証へと押し出す力があります。その恵みの書物を与えられていることを感謝し、求めつつ祈りをもって聖書を読み、力を頂いて、十字架と復活の主の証人としてこの世で力強く歩む者になりましょう。