メッセージ(大谷孝志師)
真価が問われる時
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年7月4日
ダニエル3:13-18「真価が問われる時」 牧師 大谷 孝志

 私達は時として、思いも掛けない極限状況に立たされることがある。それがいつ来るかは私達には分からない。言えることは、それが正にキリスト者としての真価が問われる時。今日の個所は、これまでそのような状況に立たされた多くのキリスト者を励ましてきた。この三人の若者の言葉と姿勢に、この世の権威とその背後にある悪の力と闘うキリスト者としての自分の生き方を見出してきたから。

 彼らはダニエルと共に、バビロンに囚われてきたイスラエルの人々の中から、バビロン王ネブカドネツァルに仕える為に特別に選び出された少年達。ダニエルが王の治世第二年に王が見た夢の意味をただ一人解き明かしたことで、王が、彼をバビロン全州の長官にした時、彼の願いでバビロン州の行政官に任命された。しかし、捕虜に仕えることになったバビロンの人達は不満を抱き、王が金の偶像を拝むことを全国に命じたのを利用して、この三人を不敬罪で訴え、彼らは怒り狂う王の前に引きだされた。16-18節の彼らの言葉は、私達に信仰の力強さを教える。彼らは「私達が仕える神は、火の燃える炉から私達を救い出すことができます。王よ、あなたの手からも救い出します」と答えた。しかし彼らの信仰の素晴らしさは、彼がそう答えたからではない。「しかし、たとえそうでなくても」と付け加えたことにある。彼らが自分達が仕える神に全幅の信頼を置いていたことは事実。しかし、神が自分達を必ず救い出すから王の命令を拒否し、命を捨てようとしたのではない。彼らにとって、救い出されるかどうかは二の次だった。

 彼らにとって「神は私達に何を求めているか。神の僕として私達が取るべき道は何か」が重要だった。もし彼らが救われると確信するから安心して炉に入ったとすれば、それは自分を神とすること、神の決定を先取りすることになるから。神にその力がると信じたのは確か。でも「たとえ…」は、神が救い出せなくてもではない。「救い出すことが御旨でなくても」の意。生きるか死ぬかが信仰の基準ではない。自分達が殺されることが御旨でも、神に背くことはしないと彼らは言った。

 この世にはどう考えても意味が分からない事が起きる。アウシュビッツ、南京、広島、長崎等の戦争犯罪の犠牲者を思う時、幾ら祈っても病気が癒されない時、私達の心は暗くなる。しかし「神は何をしているのか」「人々を救い出し、癒すのが神ではないか」との思いが生じるとすれば、私達自身が真価が問われる状況に立たされた時に、彼らのように正しい姿勢を取ることはできないかも知れない。

 今後、健康、家族、仕事や学校、或いは宗教上の理由で、今は想像もできない局面に立たされることがあるかも知れない。人から「お前の信仰は何の為だったのか。そんな信仰は捨ててしまえ」「お前の信じている神は何もしてくれないのか」と言われ、激しい動揺を経験する事があるかも知れない。しかし、その局面こそがキリスト者としての真価が問われる時と言える。「私の信じている神は必ず祈りに応えてくれるから見ていて」と私達には言えない。勿論、自分はそう信じる。しかし相手にそう断定したら、自分にとっての神、自分が仕える神ではなく、自分が神になり、自分に仕えさせる神になってしまう。私達は、神が私達の為に「災いではなく、将来と希望を与える為に、平安を与える計画」を立てていると知る。だから私達は「神は必ず助けて下さる。しかし助からないことが御心かも知れない。たとえ助からなくても、私は神に背かず、他の神々を拝まない」と言おう。そこに「真価を問われる時の私達の生き方」がある。私達はその神を信じている。