メッセージ(大谷孝志師)

自分の役割を知ろう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年7月11日
聖書 ヨハネ1:19-28「自分の役割を知ろう」  大谷孝志牧師

 この福音書は使徒ヨハネが書いたと伝えれています。しかしここに出てくるヨハネは、主イエスが福音宣教の働きを始める前に、神が主イエスについて証させる為に遣わした人です。マルコ4:4-6を見ますと、荒野に現れた彼は、らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたとあります。野人の印象を受けるかもしれませんが、それはユダヤの預言者の典型的姿と考えられています。ですから、彼の説教を聴いた多くのユダヤの人々は彼の元に来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました。ですから彼は、マタイ・マルコの福音書ではバプテスマのヨハネと呼ばれています。

 バプテスマのヨハネは、主イエスのようにしるしや奇跡を行ったと聖書に書かれていません。7節に「この人は証しのために来た。光について証しするためでであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」とあります。彼は光、つまり主イエスについて証をしただけです。その証を聴いた人々が、神の御心を知り、神に立ち帰る為に、悔い改めてバプテスマを受けたのです。

 私達はバプテスマのヨハネのように、世の人々に「あなたは罪人です。悔い改めてバプテスマを受けなさい」と言えるでしょうか。でも私達は、何故、教会に来て、主を礼拝しているのでしょう。主イエスが十字架に掛かって死に、復活して今生きて共にいると知らせた人がいて、その知らせを信じ、それ迄の生き方を変えて、主イエスを信じて生きる人生を選び取り、同じ信仰の友と共に生きる人生を歩んでいるのです。何故、信じられたのでしょう。私達がこの教会に来ているのは、自分で来たいと思い、来ると決めたからでしょう。しかし、ヨハネが主に遣わされて、荒野で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたように、私達は主に遣わされる為にここにいるのです。主の御心、主の計画によってここにいるのです。その事を知ることを聖書は私達に求めています。主は「だれも滅びることなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」のです。世の人々に福音を伝え、主イエスがどんな方かを知らせる為には、私達が必要だからです。その為に、主が教会に私達を集め、私達の思いを遥かに超える御旨によって、教会の周囲の人々、自分達の周囲の人々に一人一人を遣わしているのです。とは言え、自分をいかに見つめても、私達はあのヨハネとは比較にもならない人間ですし、神に証人として遣わされている実感も私達の心に湧き上がりません。でも福音を伝えられます。

 パウロはⅠコリ3:16で、自分が神の神殿で、神の御霊が自分の内に住んでいるのを知らないのかと言っています。私達は神と特別な関係にあるのです。主が昇天前に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け…私の証人となる」としているからです。自分にはできないと思っても、私達の内に住む御霊がが助け導き、私達も主の証人となれます。主が救い主、キリストと伝えられます。バプテスマのヨハネもペテロもパウロも私達と同じ人間。主に命じられた事をしただけ。主が共にいてさせただけなのです。

 私達が主イエスを信じ、救われ、聖霊が内に住む神の宮であることを、改めて心に刻みましょう。私達も光ではない。でも光について証しはできます。

 先程読んだ聖書に、ユダヤ人(ユダヤの宗教指導者)達が、祭司やレビ人を遣わし、バプテスマのヨハネに「あなたは誰か」と尋ねさせたとあります。彼の活動により、多くの人々が自分の罪を悔い改めて、神が求める人になろうとしていたからです。彼の働きが著しく、無視できなくなっていたのです。彼は後に、ヘロデに捕らえれ、殺されました。ユダヤ人達は、主イエスの福音宣教活動も止めさせようとしました。それが無理と分かると抹殺しようとし、捕らえて十字架に掛けて殺す為にイエスをローマに引き渡したのです。

 私達はどうでしょう。私達は世の人々の救いを願い、福音を伝えています。しかし「あなたは主イエスを信じれば救われると言うが、主イエス・キリストはどんな方か」と尋ねられたことはあるでしょうか。チラシを拒否されることはあっても、攻撃されることは殆どありません。反対の動きが出る程、押さえ付けたいと相手が思う程の活動が必要ではないでしょうか。

 何故神はバプテスマのヨハネを主イエスの先触れとして世に遣わしたでしょう。何故、神は御子を人として世に与えたのでしょう。ユダヤ人を含め、全ての人が神から離れたままなので、このままでは神は滅ぼすしかなかったからです。神は人をその為に創造したのではありません。神を仰ぎ、神と共に豊かに祝された者として生きる為です。私達は世の人々が、神に滅ぼされることを望むのでしょうか。決して望みません。皆が神に愛され、受け入れられる者となることを望んでいます。その為には人々を縛り付けている悪の力に勝たなくてはなりません。それには、堅く立って動かされることなく、いつも主の業に励むことが求められます。バプテスマのヨハネも懸命に主の御業に励みました。だから彼の様子を見て人々の心に変化が生まれたのです。

 人々がバプテスマのヨハネをどう見たかが、ユダヤ人に遣わされた人々の言葉に表れています。人々は彼を神が遣わした救い主キリストかも知れないと思ったのです。彼は彼らの問いに、私はキリストではないと即座に応えました。すると彼らは、エリヤですか、モーセのような預言者ですか立て続けに問い掛けます。彼はまた即座に「違います」と答えました。彼らは神がヨハネを遣わしたのは、自分達に何かをさせる為と考えていたからです。人は相手を自分の為の存在としてみてしまう傾向があります。神が御心を行う為に一人一人を世に遣わし、生かしていると知りましょう。皆が神の為の働き人なのです。確かに神は彼をエリヤの役割を果たす者として遣わしました。彼は素晴らしい働き人として、多くの人々の生き方を変えました。しかし、自分は、全ての人を救う御業を行う方の為に道を整える準備係に過ぎません。人の評価にでなく、果たすべき役割に留まり、それだけを考えていました。

 主は私達も遣しています。私達は主に遣わされ、御霊が働く時に、福音と信仰の喜びを伝える準備係です。その役割に徹し、果たすことで受けるものを恐れず、彼のように主が誰かを人々に知らせ、主の業に徹しましょう。彼の働きで人々の心が変わったように、私達の働きで世の人の心も変わります。