メッセージ(大谷孝志師)

パウロの祈りに学ぶ
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年7月18日
聖書 ピリピ1:1-11「パウロの祈りに学ぶ」  大谷孝志牧師

 第三週に新約聖書のピリピ人への手紙を学んでいきます。この手紙を通して私達は、誕生したばかりの教会の人々の姿を思い浮かべることができます。その姿を通して、自分達の信仰、主に対する姿勢を見詰め直せます。これを読んで先ず感じるのは、パウロは勿論、ピリピ教会の人々と父なる神、主イエス・キリスト、御霊との密接な関係です。私達は日常の事柄に心を奪われ過ぎて、神との関係が希薄になっていると反省させられます。聖書にもっと親しみ、信仰の原点に立ち帰ることができれば、神をもっと身近に感じられるようになり、私達の信仰が更に豊かなものになるのではないかと思います。

 とは言え、今と昔では時の流れ方も人間関係の在り方も大きく異なっているので、簡単に比較できませんが、御霊に教え導かれた福音宣教が、多くの人々を主イエスを信じる信仰に導き、各地に教会が誕生していったのは確かです。昔も今も、御霊が一人一人に働いています。御霊に導かれ、今日の礼拝も自分の信仰、主イエスへの姿勢を新たに造りかえて頂く時としましょう。

 パウロは自分はキリスト・イエスの僕と言います。ギリシア語では、僕と奴隷は同じ言葉ですが、日本語では受け取り方が大きく違います。でもここは奴隷で、自分の意思による自由な言動が許されない者と受け取るべきです。パウロは主の奴隷として主に従っていました。教会の迫害者だった彼が何故そうなったのでしょう。復活の主イエスがその彼に会ったからです。その時、十字架に掛かって死んだイエスが主・キリスト・救い主と知ったからです。

 彼はピリピの教会の全ての人達をキリスト・イエスにある聖徒と呼びます。勿論、ピリピ教会も人間の集まりです。信仰的に見ても様々な段階の人がいました。全てが聖なる人達とは言えなかった筈です。しかし彼は全てが聖徒と言い切ります。それは、彼らが「キリスト・イエスにある」からです。私達もそうなのです。私達がキリスト者なのは、主イエスを信じて救われ、共にいる主に従っているから、主のものになっているからです。主の十字架の贖いにより、新しい人を着、神に受け入れられる聖なる者とされたからです。

 パウロは彼らを思う度に神に感謝しています。これも大事です。人は、あの人この人をいつも思ってはいられません。でも思い、祈ることはあります。パウロはその度に感謝していました。彼にしても、良い思いばかりではなかった筈です。彼の言葉からは、無理に良い面を思い出そうとしたり、思い込もうとする印象は受けません。彼は相手と自分の為に神が良い事としたと信じ、感謝しています。私達も彼のような思いで相手を見ましょう。自分がどう受け取ろうとも、主が私達の間で良い働きを始めていて、それをやがて完成させて下さると、その過程にあると確信すれば良いのです。彼のこの信仰、相手との関わり方を模範とし、主にある良い交わりを築いて行きましょう。

 この教会は彼の伝道によって誕生しました。でも彼は巡回伝道者だったので、この手紙を書いた時、エペソにいたと考えられています。遠く離れていても、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれる程、喜びと感謝に溢れています。

 彼は、冒頭の挨拶の後、彼らを思う度に、私の神に感謝しています。あなたがた全ての為に祈る度に、いつも喜びとをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにも携わってきたことを感謝しています、と記します。このれらの言葉に、読者との親密な関係が窺えます。彼らの働きが彼から見て満足できるものだったからではないでしょう。彼ら自身も満足できるものではなかったでしょう。だからこそ。彼の言葉に大きな励ましを受けたと思います。人は完全ではなく、皆発達途上です。人によって見方は様々です。しかし、彼が彼らを完成途上にあると見たことに大切なことを教えられます。彼が、彼らと神に期待し、将来を確信しているからです。

 私達の教会もこの教会と同じ人の群れです。ですから、主に対する思い、信仰の現し方は人によって異なっています。だからこそ、互いに期待し合いましょう。でも同時に神に期待し合いましょう。これが大切です。私達が、手を繋ぎ合って、共に互いに神に目を注いでることを、聖書にしっかり立ち、感謝と喜びに溢れた教会生活をする群れとなることを、私達に望んでいます。
 彼は、自分がそのようにに彼らのことを思う理由を明らかにします。獄に入れられると心身共に束縛され、望ましくなく、避けたいことです。福音を弁明し、立証する時は、内側から湧きがるような喜びを感じています。しかし宣教している時も、獄にいる時のように、無理解、反抗、攻撃に遭います。でも、御業を行う時で、喜びに満たされる時です。彼は、彼らから見て、悪く見える時も良く見える時も、彼と共に恵みに与っていたと言います。神は、私達が神に召され、集められた群れとして、彼のように自分と相手の状況を深く理解し、互いに愛し合い、「地の塩、世の光」となるよう望んでいます。

 パウロは更に、彼らを慕うこの自分の愛の心を、神が証しすると言います。人と人との関係が暖かくしっかりしたものになるのは、自分の相手への愛の深さによるのではありません。自分達を愛し支えている神への深い信頼によるのです。彼が彼らへの愛の心を神が証しすると伝えるのは、神の自分達への関わりを知り、彼らが更に神の栄光を現す群れとなれるよう願うからです。
 彼はその為に必要なものが有るので、それを神から与えられるようにと祈ります。人の願いを叶えるのは神ご自身だからです。彼は「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によっていよいよ豊かになり、大切なことを見分けられ、キリストの日に備えた、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように」と祈ります。これはピリピ教会の為の彼の祈りですが、多くのキリスト者がこれらの事が必要だと知り、神に祈り求める祈りです。

 私達の教会も、この世に生きる人の集まりです。個人的に、或いは教会として様々な問題に直面します。それらに適切に対処し、神の教会として神の栄光を現す群れである為に、これらが私達に必要と主はご存じです。主に祈り求めましょう。彼は主は与えると確信して求めています。主の約束を知っているからです。「その日には…わたしの名によって求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。(ヨハネ16:23]。今がその日なのです。