メッセージ(大谷孝志師)

立ち帰るのを待つ神
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年7月25日
聖書 エレミヤ8:4-15「立ち帰るのを待つ神」  大谷孝志牧師

 主が言うように、人は倒れたら、起き上がるし、離れても帰って来ます。ですから主は「エルサレム」つまり神の民が、背信者となり、背信を続けても、必ずご自分に立ち帰ると信じ、待ち続けています。聖書の太字で書かれた主は、神を意味します。しかし、6節で主が言うように「彼らは偽りを握りしめ、神に立ち帰ることを拒」み続けていたのです。主は、ルカ15章の譬え話にある放蕩息子の帰りを待つ父のように、ご自分の民が立ち帰るのを待ち続けていました。放蕩息子は我に返って父の元に返り、父に「私は天に対して罪を犯しました」と言います。しかし主は、彼らは「『私はなんということをしたのか』と言って、自分の罪を悔いる者は、一人もいない。」と言います。

 聖書は、彼らがそうしている原因とそれに対する主の裁きを示します。主はご自分の僕である預言者達を早くから度々遣わし、民に歩むべき道、なすべき事を教える為に、彼らを通して民に語り掛けました。主はご自分の民が滅びるのを望まず放置しないからです。この民はご自分の民、そして主は彼らの神だからです。しかし、彼らは主がこうなって欲しいと望む民にならず、主の求めに応えられないままだったのです。これは新約の時代である今も同じです。だから、主イエスが十字架に掛かって死に、私達の罪を赦し、それを人々に知らせる為に、私達を世に遣わしています。主は人々が主に立ち帰るのを拒み続けている原因の一つが、預言者や祭司達にあると言います。彼らの役目は、神の言葉を聞き取り、それを人々に判るように説き明かし、御心はこうだと示すことです。でも、彼らは自分勝手に解釈をした御心を民に伝えいるので、民を主から遠ざけているだけと言います。彼らは主に誠実に、真摯に向き合わず、自分の弱さに負け、主が与えた使命を果たさなかったのです。私自身が牧師として心すべきと教えられます。私達は万人祭司、預言者です。御心を知らせる務めを与えられていると謙虚に自分を顧みましょう。ここに登場する預言者や祭司は、自分の利得を貪ることが心を占め、取り敢えず、人々が安心する平安を与えられればよいと思っていたのです。主が忌み嫌う事をしていました。だから、主は彼らを罰し、倒れさせると言います。

 主は「わたしは彼らを刈り入れたい」と言います。主は自分の民を祝福し、恵みを与えたいのです。しかし、主が見ると、ぶどうの木にもいちじくの木にも実がなく、葉が萎れています。これらの木は主の民エルサレムの人々を指します。聖書は、民が自分達は実を結んでいると思っているが、主から見れば実はなく、葉も萎れ、実を結ぶ可能性もないと教えます。新約聖書のルカ13章の主イエスの譬え話を見ると、ぶどう園にいちじくの木を植えた人が、実を探し来たが見つからなかったので、主人は切り倒せと園の番人に言います。しかし彼は、そのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥料をやってみますと言います。これが新約が教える主の愛の世界です。ここでは、主はそのままにし、実を結べないままにすると言い、旧約の主の罪への厳しさを知らせます。新約聖書はその罪人の罪を赦す主の愛の深さを知らせます。

 私達は教会生活を送る中で、私は実を結ぶ者と過信していないでしょうか。主は実を結ぶ者、主に仕え、主と共に生きる者として人を造り、この世に生かしています。しかし旧約聖書は、人は自分の力では主が求める実を結べず、そのままでは滅びるしかないと教えます。私達はこの現実を謙虚に認めましょう。だから主は御子を世に与え、全ての人に主が求める実を結べる道を開きました。ですから今は、御子主イエスを信じる人は救われ、神の子となれ、主が求める実を結べるのです。十字架と復活の主イエスに感謝しましょう。

 さて、今日の個所に戻ります。主はエレミヤに、ご自分の民の罪を厳しく指摘させています。聖書は、主イエスの十字架の死により示した主の愛を私達を通して知らせている主の働き掛けを、今も拒み続ける世の人々の姿をこの旧約時代の人々に重ね合わせることを、私達に求めているのです。今私達の周囲にいる人々はエルサレムの人々ではありません。しかし当時の人々が主の民であるように、今の人々も主イエスの十字架の贖いにより、主に買い取られ、主の民となった人々、新しいイスラエルの民です。彼らにあなたがたは主の民とされたと知らせても、自分達は関係ないと思い、教会来ようとしません。主はその人々に福音を伝え、教会招くよう私達を遣わしています。

 パウロがロマ10:18で言うように「そのことばは、世界の果てまで届い」ています。主が世に遣わした多くの主の証人により、福音が伝えられています。とは言え、主イエスのことを知らせ、福音を伝え、私達の教会には皆さんの為の場所、居場所があります。どうお出で下さいと呼び掛けても、教会に、礼拝に来ようとはしません。何故でしょうか。世の人々は、これ迄の経験から主イエスを信じなくても平安だ、大丈夫だと思っているのです。自分達が持っている知恵と知識で安心して生きていけると思っているからです。確かに、今は幸せかも知れません。しかし災害のように、変化は突然人々を襲います。昨日まで平和に暮らしていた家が、あっという間に無くなる事、語り合っていた家族や友人が亡くなる事が、起きています。それがこの世という現実なのです。それがいつ自分や周囲の人々に起こるかも知れないのです。

 エレミヤは人々に、主のことばを退けた人々には、悲惨な刑罰が待っていると言います。勿論、災害や病気が、全てそれに遭った人々の罪の結果と言うのではありません。そうされなければ自分達の罪に気付けなかった人々への教訓とも言えません。でも聖書は、主を信じる者には主から豊かな恵みと平安が与えられると教えています。そして、主を信じない者には滅びが待っていると教えています。私達は世の人々がどう受け取ろうとも、この真理を知らせなければなりません。ユダとエルサレムの人々は預言を聞いても、自分勝手に解釈し、大丈夫と思い込んでいました。しかしエレミヤの預言通り、バビロンに捕囚の民として連行されます。彼は人々に「平和を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しか無い」と言い、それが現実になりました。私達は預言者であり祭司です。滅びへの広い道を行く世の人に、救いの門に至る細い道があると伝える務めが与えられています。人々が真の平安を味わい、喜んで日々を過ごせるよう務めを果たしましょう。