メッセージ(大谷孝志師)
物言えば唇寒し秋の風
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年7月25日
ヤコブ3:1-12「物言えば唇寒し秋の風」 牧師 大谷 孝志

 「口は災いの元」とも言う。あの時、何であんな事を、あんな言い方をしたのだろうと思い、「後悔先に立たず」の経験をしたことは一度ならずある。特に牧師は話すのが仕事なだけに、言葉を制することが求められる。ヤコブは「多くの人の場合、教師になってはいけないと言う。人は皆、多くの過ちを犯し、教会の教師も例外ではない。その上、教師はより厳しい裁きを受けることになるからと。

 尤も、教会の教師は成りたくで成れるのものではない。召命と言い、主に教師になりなさいと命じられなければ出来ない。彼が言うように教師も完全ではない。過ちを犯す。その時、相手が何も言わず、自分も気付かないでいて、後になって、自分の言葉で相手が深く傷ついていたと知らされ、正に「唇寒し」の思いになったことも。 教師に限らず、社会で人と接している人なら誰でも経験する事では。

 しかし彼は「舌は火です。不義の世界です」と言う。非常に酷い表現に思えるが、彼は舌を馬の口にはめる轡や舟の舵といった小さいものが全体を制御することができる物に例えている。舌が、自分の人格を破壊し、他人との関係も破壊する諸悪の根源になることを人は自覚し、この舌を制御することが人にとっていかに重要な事であるかを彼は教えている。その思いを私達も受け止め考えよう。

 考えてみると周囲の人との対話で、いつも唇が寒くなる訳ではない。褒められて嬉しくなることも、褒めて相手に喜ばれることもある。舌は私達にとって様々な働きをする大切な器官。しかし、同じ人の言葉でも呆気にとられたり、逆に感心してしまう時がある。でも人はなかなか額面通りには受け取れない。前のきつい言葉が心に残っていると、裏を考えたり、釈然としなかったりする。表情なら自分なりに良い方に解釈できるが、言葉になるとずしっと重く応えてしまうから。言葉というものには計り知れない重みがある。だから、言葉を使うのは難しい。

 何故そうなってしまうのかと言うと、同じ泉が甘い水と苦い水を湧き出さないし、同じ木が二種類の実を結ばない(11,12節)のに、人の場合、例えば信徒の同じ口から讃美と呪いの言葉が出ることがあるから。彼が言うように、そんな事があってはならないのだが、そうしてしまう弱さを、信徒を含め人が持つから。

 だから信徒が信徒である為に、ヤコブは舌を制することを求める。彼はここで口と置き換えるが、口が心の中のものが噴き出す出口だから。誰もがいつも人の徳を高める生き方を心掛けてはいるが、そうとは限らない。醜いものが飛び出してくることがある。舌を制せられれば人を傷付けずにすむが、彼が言うように、舌が制しにくい悪であるだけに難しいのが現実。だから醜いものが飛び出さないようにし「物言えば唇寒し秋の風」にならないようにするには、信徒の中に上から与えられている知恵に相応しい、柔和な生き方、立派な生き方をし、自分が知恵があり、分別のある人間だと示せば良いと教える。この知恵は主イエス・キリストの知恵。人を柔和にし、妬みや敵意、知恵を誇り、他人を見下げて、高慢になる心、自己中心的言い方から人を解放する。その知恵は、自分の隣人を自分自身のように愛する人に私達を変えるから。18節にあるように、信徒になった私達の心には、義の実を結ばせる種が既に蒔かれている。この知恵により私達は舌を制せられると聖書は教える。その為に、主イエスは十字架に掛かって死に、私達を新しい人にしている。舌を制し、他人に対して温かい思い遣りをもって話をし「唇寒し」の思いをしないで済む社会が、私達の周囲に出来上がるようにしよう。